Honey Honey
ノートとにらめっこしていた真剣な目がぱっと俺を見上げて自信ありげにノートを掲げる。綴られた英文を確認して引き出しから取り出した飴をひとつ彼女の掌に乗せると、少し大げさに「Good job!よく復習してるな」と彼女を褒めてやった。
「マイク先生、袋あけて」
「Huh?そんな固かったっけ」
パッケージが切れない、と飴玉の袋を差し出す彼女に、ノート片手に視線だけを向けると、ほんの少しだけ熱をはらんだ瞳がこちらを見下ろしていた。受け取ろうと伸ばしかけた手をぐっと握って、パタンとノートを閉じると俺は内心ため息をついた。確かに生徒にはフレンドリーに接しているけれど、それはこういった好意を向けられるためじゃない。サングラスで笑っていない目を隠して彼女の手にノートを乗せると、対外用の笑顔を向けて天井に向け指を一本ぴしっと立てた。
「もうすぐ予鈴がなるぜ、イイコだから教室に帰んな」
飴は後で食えよと付け足しながら、ひらひらと手をふると、渋々といった様子で彼女が職員室のドアをくぐって去っていく。その後ろ姿を見送ってそっとため息をつくと、いつから見られていたのか、お疲れ様と声がかけられた。黒髪のその先輩を振り返りギシリと椅子の背もたれを鳴らすと降参とばかりに天を仰いでみせる。
「つれないのね」
「あんまり優しくすると勘違いさせちまうデショ」
肩を竦めておどけてみせた俺に、それもそうねと返す彼女も、男子生徒相手には気を使って線を引いて接する。普段から厳しくという教育方針も勿論あるだろう。隣で黙々とキーボードを打つ同僚がそれだ。だが優しくするのにも理由がある。生徒に楽しく勉強してもらうためだ。線引きはきちっとしないと自分の首を絞めるし、何より生徒の将来の為にもよろしくないだろう。
ハンドルを握りながらぼんやり昼間の事を考えていたら、横からとんとんと叩かれる肩。「青になったよ」と心配そうに見上げる目に促され信号に目をやると、LEDが煌々と「前に進め」と示していた。
「Ahh.悪い、ちょっと考え事してた」
からりと口の中で転がる飴玉。生徒にやったものと同じものだが、喉の為にと常備しているその橙色した蜂蜜の飴玉はほんの少しだけ俺には甘すぎる。さっさと消化してしまわないと次の飴を買うのも躊躇われ、運転席のコインホルダーにある飴を一つ摘まむと彼女に差し出した。
「食べる?っつーか手伝ってチョーダイ、俺には甘すぎンだよね」
「ありがとう、何味?」
「ン?Honey」
「呼んだ?」
「呼ぶんだったらもーちょい抑揚つけるぜHoney*」
笑いながら差し出される彼女の手に飴玉を乗せると、目の前の信号が赤に変わり、振動がいかぬようそっとブレーキを二度ポンピングする。環状道路の交差点はランプで溢れて光が少しだけ目に痛く、フロントガラスから目を逸らして見た彼女の手元はまだ開いていない飴玉のパッケージと格闘していた。
「貸してみ」
ハンドルにもたれながら手を差し出すと、彼女がごまかし笑いをしながらくしゃくしゃになった小さな袋を俺の手に乗せた。つやつやとした長い爪では上手く開けられなかったのだろう、ネイルチップしなきゃ良かったと言い訳をする彼女を横目に、ぴりりと千切って袋をあけて、袋ごと摘まんだ飴玉を彼女の口元に差し出してやる。
「ハイ、口開けて」
おずおずと開かれた口に、袋の中をつるりと滑らせて飴玉を放り込んでやると、彼女の口の中で歯に当たった飴玉がカロンと小さな音を立てた。
「もう…そこまでしてくれなくてもいいのに」
「いいデショ、たまには甘えてくれても」
恥ずかしそうにありがとうと呟く彼女にコンソールボックスをあけてもらって、飴玉の空き袋を、備え付けたゴミ袋に放り込む。青になった信号、前を譲った路線変更車のテールランプに片手を上げて応えると、パタパタと小さな雨粒がフロントガラスを叩いて軽やかな音を鳴らした。
「送ってもらって良かった、今日、傘持ってなかったから」
「Hmm.傘持ってても送ったけどな」
「それは甘え過ぎでしょ?」
「俺が君と一緒に居たいからイイの」
左手の指先でワイパーのレバーを持ち上げLOに合わせる。フロントガラスの水滴をはじく規則的な音が車内に響く中、彼女が飴玉を転がしながら口を開いた。
「甘え過ぎるとなんかダメな人間になっちゃいそう」
クスクス笑う彼女が映るフロントガラスに水滴が当たっては落ちる。キラキラと赤いテールランプが反射するそれを眺めながら、俺はいつの間にか溶けて無くなった飴玉を、また一つ口に放り込んだ。
「なぁ知ってる?蜂蜜って結構危険なんだぜ」
「乳児にはダメなんだっけ、ボツリヌス菌?」
「ソー、詳しいじゃん」
脈絡なく紡がれた言葉にもきちんと軽快な返事が返ってくる。この会話があるから彼女との短いドライブではラジオはつけない。
「大人なら平気なんでしょ」
「蜜によっては中毒起こすこともあんの。昔ツツジの蜜とか吸ったろ?吸わねェ?オレンジのツツジは危ねェんだぜ」
「ピンクのやつは平気よね?」
「ンー?」
「えっ、平気だよね?!」
また赤になった信号に車を止めて、コインホルダーから最後の一つになった飴を摘むと、今度は彼女に渡さずにそのまま包装を破る。対向車のヘッドライトがアッパーになっているらしく、眩しそうにする彼女が俺を真似して助手席で鞄を枕に、俺の方を向いてこてんと頭を倒した。
「ツツジの蜂蜜じゃねェから安心して」
ライトを避けてハンドルにもたれたまま、飴を差し出してやる俺の左手に向かって、今度は素直に口を開ける雛鳥のような彼女に内心ひっそり口の端を上げる。
これが当たり前になればいい、なんでも自分でやろうと頑張る君が、一人じゃなんにもできなくなるように。
甘い蜜には毒がある、教えてやったのに無防備に開けられた口の中で、橙色した蜂蜜の飴がからりと鳴った。