情欲という名の蟲を背に

 尾*骨から項まで、じわりじわりと歩を進める、小さな小さな蟲がいる。不快ではないがくすぐったいという程ではないその不思議な感覚に、いつの間にやら落ちていた眠りの底から、ゆったりと水面を目指すように意識が浮上した。

確か俺は、テストの採点をしている最中じゃなかったか。

 起きなければ、と思うも疲れのせいなのか上手いこと意識を覚醒できず、未だ夢と現の合間を漂うようにして微睡んでいると、また、じわり、と背筋を這うような感覚が体を突き抜けた。

なんだ?

 蟻よりも小さな何かが一匹、背筋に現れては消える。その感覚の出所はどうやら、相澤の手の甲に触れる暖かいものが原因のようだった。

瞼が重い

 段々と身体の感覚が自分の掌の中に戻ってくるのを感じ、まるで金縛りのような半覚醒状態を揺蕩いながら、相澤は睫毛の下で薄く瞼を持ち上げた。押し付けた左頬は机の天板にぺったりとくっつき、まだ揺らぐ視界の向こうに投げ出された己の手はペンを握ったままになっていたらしく、引き攣れているのか指先にじんわりと痛みを感じる。そのペンの先をつまみ、つん、と引いている指先が見える。中々取れないのだろう、添えられた左手が相澤の手の甲に遠慮がちに触れていた。

ああ、ペンを取ろうとしてくれてるのか。

痺れの為か、ペンを引かれる度に背筋を蟲が這うような感覚が走る。なんとも言えぬ感覚の出所を理解して相澤はまたそっと瞳を閉じた。起きなくては。そう思うものの中々体がいう事を聞いてくれないのがもどかしい。

するりと手の中からペンを引き抜かれた感触に、再びうっそりと薄く瞼を持ち上げると、うすぼんやりとした視界の中でぼやけた彼女が相澤と同じように、ぺたりと机に右頬をつけてこちらを見つめていた。

添えられた手はペンが取れた後もそのまま、相澤の手の甲に優しく触れて、じんわりと彼女の体温が痺れた手に移って行くのを感じる。

くすぐったいな

 起こさぬようになのか、彼女がそっと手の甲を薬指で撫でた。小さな子猫を触るような、壊れ物を扱うような指先は、相澤の手にはただくすぐったいばかりだ。するりと撫でられる手の甲にむず痒さを覚えて、背筋を這う感触が一際強くなる。

やめてくれ、痺れてるんだよ

 相澤は未だ自由にならぬ身体で薄く開いた瞼をそのままに、睫毛の下で彼女を見つめ、言葉にならぬ声をあげた。

だんだんとクリアになる視界の中で、彼女が穏やかな微笑みを湛え、また相澤の手の甲を、その小さな爪の背でもってするりと撫でた。学生時代に負ったものだっただろうか、細い傷跡の走ったそこを、痕を辿るようにして彼女の薬指が相澤の中指と薬指の間へと潜り込んだ。ゆるく開かれた掌に細い小指が差し込まれ、優しく手を握られる。いびつに絡んだ指先は、まるで縺れ合う動物のようにも見えた。

ああ、ダメだ。コイツはそんなつもりじゃないってのに。

 そんなことを意識してしまったからなのか、時折背筋を這いあがる蟲のせいなのか、痺れた指先をなぞられ、ここしばらく欲の処理を怠っていた相澤の体の中で、じくり、と何か良くないものが蠢いた。未だ手を握る彼女は、そんな相澤の心根を知らず、我が子を見つめる母のように慈しむような瞳を彼の手に向けていた。

そんな目で見ないでくれ

 いびつに指を絡ませたまま、するり、するりと、眠った子を撫でるように、彼女がその親指でもって相澤の手首を撫でる。筋張った己の手の上、形の良い爪先が時折、かり、と引っ掻くようにして小指側にある骨の突起を弄ぶ。

ああ、これは…

 気持ちがいい。そう認めてしまってはいけないのだと理性が警鐘を鳴らしていたが、指の痺れが取れかけた今もなお背筋を這う正体不明の蟲が、その警鐘を無視しろとばかりに這い回る。

乾いてきた目を再び閉じて、指先を辿るその感触に身を委ねてしまえば、後はもう、己の中の熱に理性等焦がしつくされて消えてしまうだろう。

 するり、と彼女の指が相澤の小指を捕えたのは、そんな葛藤と戦っている時の事だった。硬く分厚い皮のなか、唯一まだ柔らかい小指の腹を、彼女の人差し指と中指がはさむようにしてすりすりと撫でる。乾いてきた目の端では、インクでもついているのだろうその小指を、微笑ましいものを見るような目でみつめながら擦る彼女。

仕方ないだろ、目が乾くんだ

 理由はいらないはずなのに、そんな言い訳が頭に浮かんでしまう。閉じた瞼の裏側で痛みを訴える目よりも強い、彼女に擦られるその小指の甘い痺れに、相澤は抗うのをやめた。じくりじくりと上がる熱に伴い、段々と夢から現へと意識が浮上する。水面はもうすぐそこだ。

「おはよう」

 重かった瞼をゆっくりと持ち上げ、生理的な涙で潤ったその双眸をうっそりと向けると、彼女は少し照れくさそうにそう言った。悪戯が見つかった子供のように無邪気な顔ではにかむ彼女が、そうっと離そうとする指先を、蜘蛛のように絡ませて捕える。

 戸惑うような視線の先、己の手が捕えた小さな掌が、大人しく指を絡ませるのを見て、相澤は知らずため息をついた。自ら巣にかかり食べられようとする蝶のようだ。合わせた視線の先で微笑む彼女は、この先何が起きるのかをわかっていないのだろう。背筋を這う正体不明の蟲が、そろり、と再びその足を蠢かす。

 するりと白い手の甲へ、彼女がしたように指先を這わせる。戸惑うような目と視線があったが、逃げることなく天板に伏せたまま、まるで何かが背を這ったかのようにふるりと小さく震えた彼女が、睫毛を揺らし頬を染めた。