黒猫

近所の野良猫が遊びにくるのだ、と彼女が言った。

だからというわけではないが、たまたま非番だったこともあり、引っ越したばかりの彼女の部屋を初めて訪れることになった。荷物も未だに片付いていないというので、男手があって助かりはしても困りはしないだろう。

「結構量があるから、二人でやっても2日ぐらいはかかるよ」

 リフォームされたばかりだというその部屋は、日当たりも良く風呂トイレ別の2LDKだった。ベランダに続く大きな窓のあるリビングに、左右それぞれに備え付けられた木製ドアの奥にある洋室は、寝室と書斎にしているのだという。

 ベッドを組み立てるのを後回しにしたからか、床に直接布団を敷いて寝ていて、あまり良く眠れないのだという彼女のために、部屋を掃除して買ったばかりだというセミダブルのベッドを組み上げることにした。いつも綺麗にしている彼女にしては、長い黒髪が目立つ寝室の床に、忙しかったのだろう日々を思う。一人寝室でベッド組み上げていると、少し開いたドアの影を走る黒いものがいた。彼女の言う、近所にいる猫なのだろう。確か先日、部屋の中まで入ってきて夕飯の刺身を取られたのだと笑っていた。

ちちち、と舌を鳴らしてみるも、警戒心が強いのかドアの影に黒い尻尾の先をするりと引いて、それきり猫はどこかにいってしまった。そのうち姿を見せてくれるだろう。こういうのは確か焦りは禁物だと年若い弟子が言っていたのを思い出し、俺は再び手の中にあるドライバーを回して彼女一人で寝るには大きなベッドを黙々と組み立てることに集中する。そのうち、猫の事は頭からぽっかりと消えていた。

「夕飯食べて泊まっていったら?おかげさまでベッドもあるし」

 あれなら二人で寝られるでしょ、という彼女に甘え、代わりにと夕飯ができるまでソファやTV台を組み立てて待とうとすると、彼女がベランダに続く窓をからりと開いた。

「寒いかな、魚を焼くから少し開けておきたいんだけど」
「大丈夫だよ、もう春だしそこまで寒くない」

 換気扇を回す音が響き、そのうち魚が焼ける良い香りが漂ってくる中で、ふと先ほどの猫の事を思い出した。そう匂いのしない刺身を取るぐらいなのだから、魚を焼く匂いにつられて来るかもしれない。視線をベランダに巡らせると、カウンターの向こう側にあるキッチンで、彼女があっと小さな声をあげた。

「猫そっちいかなかった?消太のアジがやられた」
「気づかなかったな、もう侵入してたのか」

 二尾あるのにやられたのは俺のアジだという彼女に笑いながら、組み上がったTV台を置いて胡坐をかいたまま視線を巡らせると、寝室に続くドアの影、先ほど見た黒い毛足の長い尻尾の先がちらりと覗いているのが見えた。

「居た!窓閉めて。逃げられるから。」
「わかった」

 動かぬ尻尾を見つめながら、からからと慎重に窓を閉める。ドアの影で盗ったアジでも食べているのだろうか、つやつやとした尻尾は思いのほか毛並みが良いので、もしかしたらどこかの飼い猫なのかもしれない。

「コラ!それは体に良くないからやめなさい!」

 彼女がカウンターをひらりと飛び越え、俺を尻目に猫を追う。もしかしたら姿が見られるかもしれない、と淡い期待を抱きながら尻尾を見守っていると、彼女はそのままぱたぱたと足音を響かせて背後の書斎に消えた。

「おい、猫はあっちだよ」
「え?こっちに逃げなかった?」
「いや、寝室に居る」

 ドアからひょこりと顔をのぞかせた彼女が、怪訝な顔で俺の顔を見つめて口を開いた。

「書斎だと思うんだけどな、消太ちょっと見てきてよ。私はこっちを探すから」
「ああ、いいよ」

 言って見つめる視線の先、するりとドアの影に黒い尻尾が姿を消した。逃げ場の無い寝室に追い込んでしまったなと、怖がらせぬようそっとドアの影から手だけを差し入れ電気のスイッチを手探りで探す。

ぱちり、とついたLEDの青白い照明の中、黒く艶々としたそれはするりとベッド下へと消えた。逃げられぬようにドアを閉め、ベッドの下を覗いてみたが、猫の姿は影も形も見えない。

「どうだった?」

 かけられた声に振り返ると、猫が逃げないようにと閉めたドアをほんの少しだけあけて、彼女が顔を覗かせていた。この部屋にはまだベッドしかない、隠れられる場所などもう無いはずだ。

「確かに尻尾が見えたんだが」
「でも私捕まえたよ、もう1匹いるのかな」

 床を這っていた為か、手に張り付いた一本の黒く長い髪の毛を摘んで取りながら彼女に歩み寄ると、彼女の腕の中でふてぶてしい態度の茶トラがひと声にゃあと鳴いた。

 そういえば尻尾の先しか見ていない。あれは、本当に猫だったのだろうか。