無自覚な抱擁

 さえずる小鳥のような軽やかな声が耳を打つ。ひざしはその声に耳を傾けながら、うすぼんやりとグラスに入った氷がゆっくり溶けていく様子を見つめていた。

淡いブルーが美しい琉球ガラスのころんとしたそのグラスは、まだ春先だという今の季節には少しだけ寒々しい印象を与えるが、土産として買ってきたところ彼女がいたく気に入って通年使い続けている。

 ほっそりとした手がグラスを持ち上げ、からりと氷が鳴る音と共に、ほんのすこしだけさえずりが止んだ。声の主の様子をちらりと覗い見ると、肩で携帯を挟んだまま、こちらに視線を向けて申し訳なさそうに眉を下げて微笑んだ。ひざしは「気にするな」と言うように彼女に笑顔を返すと、また机に置かれたグラスをぼんやりと見つめた。

アー…取り上げなきゃよかった

 本当に些細な事だったのだ。仕事の電話を受けて喋る彼女の声と、電話中に彼女が手の中で弄ぶ紙片のカサカサという音が、ちょっとだけ合わなかった。個性もあってか、育ってきた環境の賜物なのかは知らないが、ひざしの耳は人よりほんの少しだけ敏感らしく、時折不協和音が耳障りに感じることがある。今回の原因もそれだ。手からゴミと思われる紙片をひょいと取り上げると、にっこりほほ笑んだ彼女がそのまま、ひざしの手で手遊びを始めたのだ。

ただ握ってるだけならいいんだけどなァ

 ちらりと視線をやった先では、掌を上に向けて無造作に置かれたひざしの手に、指をゆるく絡めるようにして小さな手が乗せられていた。話しながら無意識になのか、その小ぶりな親指の爪先が掌をするりするりと円を描くように撫ぜるのだからくすぐったくて堪らない。

コレわざと?無意識?

 己の親指でもって、円を描く小さな彼女の親指を押さえ込むと。電話を片手に彼女がちらりとひざしを覗い見た。なぁに?とでも言いたげなその視線に苦笑すると、押さえ込んでいた親指を離してやる。

OK、わざとじゃねェってわけね

 相槌を打ちながら考え込む彼女を横目に、同じようにくすぐられぬようにそっと手を開いてやる。するりと絡んでいた指が解けると、二回り程は小さいだろう彼女の手は、大人しくひざしの掌の上にぱたりとその身を横たえた。

くったりと力なく掌の中におさまるそれは、短く切りそろえられた爪すら小ぶりで可愛らしく、骨と筋が目立つ男の手の上に乗ると、同じ種類の動物の手だとはまるで思えなかった。

小っちゃい手だよな

 身長の低い彼女は、何もかもがひざしよりは小さく華奢だ。力加減を間違えぬよう丁重に扱ってなお、まだ足りぬのではないかと思ってしまう程繊細な作りの手は、彼女が相槌をやめて会話をはじめると、再びもぞりとその身を起こし、伸びをするようにしてひざしの指へと五指を這わせた。

なるほどね。手遊びは喋ってる時の癖なワケだ

 指を絡ませるのは好きなのだが、また同じようにしてくすぐられてはたまらないと、その指を逸らせて手を大きく開いて抵抗してやる。そんなひざしの心もしらず、伸びてきた細く白い人差し指が、骨ばって長いひざしの人差し指の先へとその爪先を滑らせる。

伸ばされた細い指は、小さな彼女が背伸びをしてキスをするときのように、彼の人差し指の先でその動きを止めた。そのまま静かにしているのかと思ったら、中指と親指が、するり、と彼の指の間に潜り込み、捕まえたとばかりにその身を絡ませてくる。

このまま手を開いてたら、さっきみたいにゃならねェだろ

 筋張った男の手が必死に追いすがる女の手から逃げるようにして机に身を捩らせているのをぼんやりと眺めながら、ひざしはなんだか罪悪感に囚われてならなかった。

頬を寄せるようにするりと爪の縁を撫でる人差し指。仰け反る手を抱きしめるように回される中指。親指はいつもキスをすると彼女が縋りつくように添える手のように、ひざしの人差し指の付け根あたりをさまよっている。

ひざしの目にはその絡み合う手が、まるで己を求める彼女を邪険に扱う自分の姿のようにも見えてしまった。嫌なわけではないのだ、ちょっと、いや、非常にくすぐったいだけで。こんなに必死に追いすがる彼女に対して、仰け反るように拒絶する程嫌なのかと問われるとそうではなかったが。

嫌なわけじゃねェんだし…我慢するか。

 くたりと力を抜いてやると、その小さな手はまるでそれ自体が命が宿った小動物かのように、ひざしの手に優しく絡みついた。

横たわる身体にその身をゆっくりと寄せたその手は、抵抗しないことがわかると、細い小指と薬指でもって骨ばった小指をそっと挟み込んだ。ひざしはそれを眺めながら、挟み込まれた小指で彼女の薬指をするりとなでる。

その小さな手が、おずおずと身を寄せて様子をうかがう彼女のように見えて少し胸が痛く、なんだか撫でずに居られなかったのだ。

 そのまま優しく撫でてやっていると、ふんわりと絡ませた指の中、そろりと伸ばされた細い人差し指が、ひざしの中指につんと触れた。ほんの少しだけ指先を曲げ、彼女の爪の縁を撫でてやると、彼女の指がそれに応えるように、すり、とひざしの指を撫で返す。その姿はまるで頬を寄せ合う人間のようだった。

なんか、手だけなのにハグしてるみたいだな

 そんなことを考えて彼女の顔に視線を移すと、涼しい顔をしたまま、まだ真剣に話をしているようで、こちらには目もくれず空いた左手で資料をめくって何やら数値を読み上げている。目を上げた彼女がこちらの視線に気づいたのか、するりと手を離して何やらメモに文字をかきはじめた。

顔あげなきゃよかったか、そしたらあのままでいられたのに

琉球ガラスのグラスを手に取り、残りのお茶を喉に流し込む。すっかり溶けた氷で薄くなったお茶は、ただの色つきの水のようになっていて味がしなかったが、頭を冷やすには丁度いいかもしれないほどには、まだ充分その冷たさを保っていた。

何盛り上がったり寂しくなってンだよ、ただの手だっての

 自らに言い聞かせながら空になったグラスを置くと、彼女がとんとんとひざしの肩を叩いた。机の上に置かれたメモに「待たせてごめんね」と丸っこい小さな字で書かれている。そろりと手の甲を撫でる感触に目を落とすと、何かを待つように、机の上で彼女の小さな右手が指を広げていた。

 その小さな掌に覆いかぶせるようにして己の骨ばった手を重ねる。今はまだ相槌を打っているだけだから静かだが、手遊びがはじまるのは時間の問題だろう。さっきはやめてほしいとさえ思っていたそれを、今はただ待ち遠しく感じてしまう自分がいた。

 ぼんやりと見つめる先で、書類をめくる彼女の指先が止まる。何か思案した後、相手の声が止まったのか、彼女がまた口を開くのを見て、ひざしは頬杖をついてその緑色の瞳を閉じた。

小さな手に指をからめ、人差し指でもって彼女の指先をそろりとなでてやる。無自覚な指先が頬ずりするように己の骨ばった指先を撫でる感触に、ひざしは一人満足そうに微笑んだ。