お風呂が沸きました


『お風呂が沸きました』

無機質な女の声が風呂場に響く中、ドアを開けて湯船の蓋をあけると、なみなみと熱い湯がはっていた。確かに湯は沸いているようだ。ざらざらと湯船にバスソルトを流し込んでやると、しゅわしゅわと結晶が溶けて見る間に湯の底が淡い紫に染まっていった。

『お風呂が沸きました』
「OK、OK、見りゃわかるぜオネーさん」

 無機質な音声に返事をしながら袖を捲り上げて湯をかき混ぜてやると、ふわりとラベンダーの香りがバスルームに広がった。オレには少し小さいが二人で入れるだろうか等と思いながら、彼女を呼ぼうと湯から腕を出す。温度も丁度良さそうだ。

『お風呂が沸きました』

 腕を振ってまとわりついた水滴をはじいていると、再びバスルームに無機質な声が響いた。これは、こう何度も通知をするものなのだろうか。耳障りな機械音声を止めようと通知パネルを確認する。「給湯」「温度設定」通知設定画面は見当たらない。ピロンピロンという間抜けな操作音の合間にまた機械から声が響く。

『お風呂が沸きました』

 その無機質な声を聴きながら、オレは彼女の言葉を思い出していた。

「笑わないで聞いてね、最近引っ越した家なんだけど…何か居るみたいなの」
「Umm、何かって何?Gのつくアイツ?」
「そういうんじゃないんだけど、何て説明していいのか…」

 言いよどむ彼女の話を聞きだしてみたところ、どうやら人の気配を感じるらしい。料理をしているとき。風呂に入っているとき。決まって一人きりでいるときに、時折人の気配を感じるのだという。もともと彼女は少し怖がりなところがある人で、怖い映画等を見た日には泊めて欲しいとせがむ程だった。きっとまた、怖い映画でも見て、恐ろしい考えに取りつかれているのだろう。

「そしたら今日は、オレ泊まろっか。そしたら一人じゃなくなるぜ?」

 彼女が安心するならばと、そう提案してオレは今日彼女の家でこうして風呂を沸かしていた。髪を洗う時が一番怖いという彼女に笑って、じゃあオレが洗ってあげると提案したら、恥ずかしそうにじゃあお願いしようかな、などと言うものだからさっきまでは浮足立っていたというのに。

『お風呂が沸きました』

 通知が止まらないどころか、段々と通知の感覚が短くなっていく。故障でもしたのだろうか、一度電源を落としてやろうかと電源ボタンを長押ししてみるが、給湯器のランプはついたままで無機質な声も止まらない。

『お風呂が沸きました』

そうこうしている間に、裸足の足音が近づいてきて軽い足音がドアを開けたままの背後で止まった。通知音が煩いから彼女が様子を見に来てくれたのだろうかと、ほっと息をついて振り返ろうとして思いとどまる。

そういえば、彼女は靴下を履いていたんじゃなかったか。

 ひたり。と浴室のタイルを裸足の足が打つ音がする。彼女よりも少しだけ重い足音に、人より音に敏感な自分の耳を呪った。また風呂場にぷつりぷつりと途切れがちになった無機質な通知音が響く。

『お風呂が』
『わ』

『きました』

  その通知を最後に、給湯器のLEDがふつりと消えた。湯船に目を落としていたからか、かき混ぜて揺れる水面に、オレの背後に居る何者かの影がゆらゆらと映っている。

「バスタオル持ってきたよ。ごめんね、何か給湯器おかしくなってた?」

 ぱたぱたと軽い足音と共に彼女が脱衣所から声をかけてくれるまで、その場を動く事ができぬまま、オレは風呂場でしゃがんで紫色の湯を眺めていた。水面に映っていた人影は、彼女の声と共に*き消えたようで、波紋の落ち着いた湯船には自分の影が映るだけだ。

「アー…もしかしたら壊れたかも?」
「ええ?まだ新しいのに。明日からどうしよう。」

 脱衣所に居る彼女が文句を言いながら、靴下を脱いで浴室をぱたぱたと歩き給湯器を覗き込む。湯船に映りゆらゆら揺れる彼女の影は、さっきの影より一回り小さかった。

「もうオレんち引っ越しちゃえばイイんじゃない」

この家で一人にするよりは、その方がいいだろう。ふざけた口調で言ってやったものの、顔が上手く取り繕えない。笑って振り返った彼女も、オレの顔が真剣だったからか、こくりと静かに頷いた。