心操:Step
さして重くないはずの教室のドアが、まるで鉛でできているかのように重く感じるのはきっと私の気持が鉛のように重いからなのだろう。カラカラと音を立てて開けたドアの先には、今日も明るい声を上げて笑いあう女の子達。そのうちの一人、長い髪の彼女と一瞬目が合ったけれど、何か言いたげに口を開いた後にそっと目を逸らすその姿に、私は声をかける勇気がないまま、今日も口を噤んで窓際にある自分の席へと足を運んだ。
「おはよう」
「…おはよう…」
開いたままの窓からは、気温にしては涼しい風が吹き込んできており、外をぼうっと眺めて頬杖をついた彼の紫色の髪をふわふわと揺らしていた。その三白眼をちらりとこちらに向けて薄く笑顔を向けた挨拶の主、心操君が…私達の問題の原因だった。
別に喧嘩をしたわけではない。席替えがあり、彼女が好きだと言っていた人の隣の席になってしまった。ただそれだけのことなのだ。
「窓、開けたままで大丈夫?」
「あー…うん、その方が涼しいから助かる」
できればあまり話しかけないで欲しい。が、別に彼は悪くないのだから邪険に扱う事も出来ず、へらりと曖昧な笑顔を向けた私に、彼は苦笑いをしながら首を撫でた。
ちら、と教卓のあたりに視線をやると、こちらを覗う彼女と視線が合った。やはりさっきと同じように視線を逸らされてしまって、私はため息をつきながら彼の隣、自分の椅子をガリガリと音を立てて引いて力なく腰かける。
「何かあったわけ?」
「…ん、まぁそんな感じ」
「そう警戒しないでくれる、別に洗脳したりしない」
「いっその事、心操くんに洗脳して欲しいわ…」
しまった。と思った時には既に遅く。ぽつりと零した言葉に、彼が諦めたような笑顔でまた首を撫でるのを見て、私の頭の中でざぁっとさざ波のように血の気が引いていく音がした。体育祭での彼を見て、己の個性に多少ならずともコンプレックスを抱えていることはわかっていたはずなのに。
「あー…いや、ちょっと藁にも縋りたい気分でさ。ごめん。」
「いや、いいよ慣れてる」
言っていいことと悪い事があるのだ。と、何度も教わってきているというのに、粗忽者の私の唇はいつも必要な時には言葉を紡がず、余計な事ばかり口にする。
「俺の個性じゃ、喋らせることはできないから、多分役には立てない」
何と言ってこの場の空気を変えようかと目を泳がせていると、彼が教卓のあたりで話す彼女を見ながら、私にギリギリ聞こえる小さい声で呟いた。
「え、そうなの?」
「考えるようなことはさせられない。仲良かったんだし、頑張りなよ。」
「そっかー…話せなくても、切っ掛けになればなぁと思ったんだけどな」
心操くんがどこまで分かっているのかわからぬままだが、どうやら気を使ってくれたらしい。空気を軽くしてくれた彼に弱音と軽口を叩いた私は、隣に座る彼に「ありがとう、頑張るわ」と呟いて、私を居ない者として扱う彼女からそっと瞳をそらし、机に突っ伏すとその目を閉じた。
「行かないわけ?」
「行けないよ、無視されるのが怖くて一歩が踏み出せないもん」
「ふぅん、洗脳されるのは怖がらないのに」
「心操くんは個性を悪用したりしないじゃん、怖くないよ」
突っ伏した私に変わらず小声で話しかけてくれる彼に、天板の木目を目でなぞりながらぽつりぽつりと呟く。目を見なければ、こんなにも素直に言葉が口からつらつらと溢れてくるのに、全くままならない。
「あの子らが教卓からどいたら教えてくれるかな、宿題出しに行きたいんだよね」
「いいよ、俺が出してくる」
「マジで?ありがとう」
宿題のプリントを手に顔をあげると、ふわりと意識が遠のいた。遠くで低く落ち着いた声が聞こえる気がするけれど、とろりと葛湯に浸かったような私の脳みそは、何を言っているのかすら理解できぬまま。気持ち良いような悪いような、不思議な心地の中でふわふわ漂って…。
ガツンと額に鈍い一撃を食らい、私は黒板と熱いキスをした。
「大丈夫?!なにやってんのアンタ」
「痛ったー!」
倒れそうになった私を支えてくれたのは、件の彼女だった。慌てて心操くんの方を振り向くと、机に突っ伏して他人のふりを決め込んでいる。痛むおでこをさすりながら、私は手の中に持っていたプリントを彼女に掲げてみせると、半ばヤケクソな笑顔を浮かべ、ここ数日分の鬱憤を晴らすように背中をバンバンと叩いてやった。
「宿題出しに来たの!おはよ!」
「痛いなぁもう!それで黒板に突っ込むとかどうなってんのよ…おはよ」
ほんの少しだけ気まずげに笑った彼女は、挨拶をするといつもと変わらぬ笑顔に戻り、私の前髪についたチョークを払って落としてくれた。ピンク色の粉がパラパラと落ちてゆく中で、ドジなんだから…等と周りの友達もいつものように話しかけてくれる。滑稽で歪な女の世界は、ほんの些細な事で壊れて、黒板へのヘッドバット一つで戻ったりするのだから、今までの私の葛藤を返せと半ば腹立たしくもなる。だけれど同時にこのぬるま湯に戻れてほっとしている自分が居た。
授業の予鈴が鳴り、プリントを教卓に置いて慌てて彼女たちに別れを告げて席に戻ると、心操くんがのそりと顔を上げた。痛むおでこは多分赤くなっているだろうけれど、それは置いておくことにしよう。周りに聞こえないように、ほんの少しだけ小さい声で「ありがとね」と彼に囁く。
「俺は黒板にぶつかってきたら、って言っただけ」
背中を押してくれたヒーローは、ニヤリと不敵に歯を見せて笑うと「後は自分の力だよ」と気だるげな声で呟いた。