☆恋とはどんなものかしら

「ミョウジ先生は恋をしていらっしゃいますか?」

 手に持った本をぱらぱらと捲りながら、彼女は長い睫毛の奥からこちらにそっと目を向けた。私は自分が場違いな質問をしてしまったらしいことに気付いて撤回をしようとしたが、彼女の静かに問うような視線に促されて再び口を開いた。

「その、ミョウジ先生が薦めてくださった小説。大変面白く拝読いたしました。でも私、恋というものがどういうものかよくわからなくて」

 言い訳めいているかもしれないと思いながらも口をついて出た言葉に、彼女は微笑んで、そう、と呟く。その相槌に背を押されるようにしてつらつらと本の感想と、自分に分からぬ恋というものについての定義について語ってみると、彼女は眩しい物でもみるように目を細め、私の話を聞いてくれた。

 最近入ったのだという年若いその司書の女性は、口数こそ多くないものの、柔和で大層な聞き上手なのだ。私は本を返す度に彼女と話をするのを密かな楽しみにしていたのだが、少しプライベートなことに足を突っ込んでしまったのかもしれない。先ほどの問いに彼女の視線がそっとそらされてしまったからだ。

 聞かなければ良かった、と、ほんの少しだけ後悔をして慌てて開いた口は、つらつらと自分の考えを述べた後、続く言葉を失ってそっとその唇を縫い合わせた。

「さっきの質問だけれどね」

 毛羽立った栞紐を掴んで伸ばす指先に視線を落としながら、彼女がことさら小さい声で囁く。私にしか聞こえぬように声を潜めているのだと気づいて、そっと身を屈めて彼女に顔を寄せた。

「しているかもしれない。まだ、憧れに近いものだけど」

 はにかんでそっと教えてくれたその顔は、自分よりは十以上も上とは思えない、まるで同年代の少女のようだった。図書室という場所、小声ということも相まって、まだ確実ではないというのに、なんだか告白を聞いてしまったような気持ちが胸を襲って、締め付けられたように苦しくなった。

「ねぇねぇミョウジ先生、相手はどんな人?」

 ふわふわと隣で浮かぶ本。気づけば葉隠さんが私の後ろで順番待ちをしていたらしい。彼女も気づいていなかったのだろう、二人して目を見合わせると、彼女は笑って宙に浮かぶ本を手に取った。

「穏やかに話す、素敵な声の人」

 誰とも分からぬ霞のような答えとともに、受け取った本をちらりとみると、返却ね?とにっこりと笑った。毛羽立つ栞紐を指先で伸ばしながら、ページの間に挟み直すその横顔はすっかり大人のもので、ちぇっという葉隠さんの声に私も内心同意した。きっと私が相手でも、答えは教えて貰えなかっただろう。

「チャイムが鳴るから戻りなさいね」
「はい。参りましょう葉隠さん」
「はーい。コイバナもうちょっとしたかったなぁ」

 ひらひらと振られる手に、頭を下げて図書室を後にすると、隣を歩く葉隠さんがくるりと振り返ったらしい。踵を前にした靴が軽やかにステップを踏み、翻るスカートがふわりと風を起こした。

「恋ってどんなモンなんだろうねぇ」

 先ほど語った持論を思い描いたが、彼女の少女のような微笑みを思い浮かべると、どれも的外れな気がして口を噤んだ。どう言ったものか、と頬に手を当てると、私にもわかりませんわ…と途方にくれながら葉隠さんに答えたのだった。


 その日の職員室は、昼休みだというのに大勢の生徒で賑わっていた。試験前ということもあり質問に訪れていた私は、ゼリーを一気に飲み干した相澤先生からノートを受け取ると、図書室から借りた本を小脇に抱えなおしてぺこりと頭を下げた。

「お昼時なのに申し訳ありません、ありがとうございました」
「かまわないよ。またおいで」

 後に控えていた蛙吹さんのノートにペンを走らせながら言う相澤先生の横で、ええーそんなに範囲広いのぉ?!と悲鳴が上がる。葉隠さんと芦戸さんが揃って隣で英語の範囲について質問しているところだったのだが、想定していたより範囲がどうやら広いらしい。後で教えて貰わなくてはと思いながらも頭を下げて職員室を後にしようとすると、サンドイッチを食みながら書類をホチキス止めするマイク先生の、頑張んな!と鼓舞する声が聞こえてきた。

「あっ、まってまって!もしかして図書室いく?またミョウジ先生とコイバナする?私も行きたいかも!」

 パタパタと背を追ってくる音に振り向くと、質問を終えたばかりの葉隠さんが職員室の中で私の背を叩いた。手に持っていた本を目敏く見つけたのだろう。その大きな声に気を引かれたのか、葉隠さんの透明な顔を通してマイク先生と目が合った気がした。

 どうやらホチキスの針が切れただけらしく、ドライバーのハンドルとマガジンを開いて、袖机の引き出しに視線を落とすのが見える。葉隠さんの顔があるはずの場所で繰り広げられるその不思議な光景を見ながら、私は彼女の目があるだろう場所と視線を合わせた。

「後でまいりますわ。恋の話は…するかわかりませんが、ご一緒しましょうか」
「ヒントぐらい貰えるかなぁ、穏やかに話すイケボじゃ誰の事かわかんないよね」

 補充した後に勢い余ってホチキスのマガジン部分を戻してしまったのか、豪快に針を指に刺したマイク先生が、悲鳴をあげて針を引っこ抜くのを見ながら、葉隠さん、シーですわ。とたしなめると、私は葉隠さんと連れ立って職員室を後にしたのだった。


 借りていた本に誰かの物らしい、アンティーク風な透かし彫りがされた銅のブックマークが挟まっているのに気付いたのは、放課後の事だった。羽根を模したそれを手にして、再び図書室を訪れると、司書であるミョウジ先生の声と、落ち着いた、あまり聞き覚えの無い男性の囁き声が耳に入り、思わず私は背の高い書棚の影に身を潜めた。

「本取ってきてくれって頼まれたんだけど、届いてる?」
「ええ、ありますよ。全部で五冊。三冊は既存のものなのでこちらです」

 他に人は居ないというのに、場所のせいもあるのか密やかになるその声は、なんてことはない会話をしているだけのようだった。穏やかな声で話す素敵な声の人、という言葉を思い出してつい隠れてしまったが、あれは一体誰なのだろう。

「全部持っていかれるんですか、結構重いかもしれませんが」
「じゃあ持てないかも?一度中身見るかな、必要そうなら全部持ってくよ」

 からかうような響きが混じった軽口を叩くその声にはほんの少しだけ聞き覚えがあって、私はいけないものを見る様な気持ちでそうっと書棚から本を一冊抜き取ると、本一冊分開いたその隙間から、ミョウジ先生の笑顔と隣で本を捲る男性の手を覗き見る。

 男性の指にはバンドエイドが巻かれているが、それ以上はこの細い隙間からは見ることができなさそうだ。白いシャツが目に入るが、肩口あたりまでが限界だった。どうしても気になってしまい、私は隣にある本をまた一冊抜き取ることにした。気づかれないよう、そうっと、音を立てぬように。

 探している本、持ってきますね。と彼女の姿が司書室に消えると共に、すとん、と手の中に分厚い本が一冊おさまった。開いた隙間から覗くのは見慣れたレザーパンツに、ジャケットを脱いだ姿の…マイク先生だった。

 マイク先生は、司書室で探し物をする彼女の背をぼんやりと見つめ、バンドエイドを貼った親指に目を落として煩わしそうに人差し指でカリカリとそこを引っ掻くと、再び手の中の本に目を落とした。

「なんだか元気がないですね?」
「図書室ではお静かに、デショ」

 司書室から戻ってきた彼女が、大ぶりな本を二冊重ねて渡しながら聞くと、またマイク先生が軽口を叩く。何度も注意されたのだろう、彼女の口調を真似るように言って肩を叩かれ、二人してクスクスと笑い合う。

「私ね、ここで聞く先生の声好きですよ」
「そりゃどーも、いつもは煩いけどね」
「煩いなんて思ったことないですよ」

 本を捲る手が止まり、二人の視線が合う。マイク先生が何かを言おうと口を開いて、先生にしては珍しく、小さくへぇ?と呟いた。彼女はそれがおかしかったのか声を潜めてクスクスと笑って、マイク先生から顔を隠すようにカウンターに頬杖をついて真っ直ぐ前を見つめていた。

「いつもは賑やかですけどね。こうやって聞いてると、穏やかで、素敵な声だと思います」

彼女はマイク先生にそう呟くと、あの時と同じ、少女のような顔で微笑んだ。