あなたはだあれ
※後味の悪い話
※主人公がすべてを忘却したあと、他のキャラたちから無理やり忍の世界から足を洗わせられて安全なところで何も知らずに生きているという話です
目が覚めると病院にいた。経緯は不明ではあるけれど何らかの事故か事件に巻き込まれ、道端に倒れていたところを通報されたらしい。数日間意識が戻らぬままだったそうだが、無事に目が覚めてよかった、と白衣の人物はそう語った。
事件か事故か、何に巻き込まれたのかは定かではないけれど、自分はその時に強い精神的ショックを受けたのか記憶を失っていた。頭に怪我はなかったそうなので特に身体的にあとで症状が出て云々、というのは無いそうだ。
幸いなことに自分の荷物には身分をはっきり示すものが残っており、身元と住所は簡単に明らかになった。財布も鍵も無事で手荷物が漁られた形跡は全くなかったらしい。あなたの荷物ですか?と警察の人に聞かれても分からないとしか答えられず困らせてしまったが、正直に言ってピンとこなかった。
外傷らしい外傷はなく、精密検査をしても異常は見当たらず、後は精神的なものだろうと退院を打診された自分は自宅とされた場所に帰ることとなった。あとはカウンセリングに通うことになるらしい。自分に何か異常があるとは思えなかったが、医者が言うのであれば仕方がないだろう。
免許証と保険証に記された住所へ行くと、一般的なワンルームマンションを賃貸契約したごく普通の部屋があった。管理人に事情説明をした後、部屋の前まで案内をしてもらう。手荷物に入っていた鍵は当然のように鍵穴に嵌った。
どこか見慣れない扉を開けると、そこには整頓された女性の部屋があった。当然だろう。自分はここに住んでいたのだから。靴入れにはブーツやパンプスなどの靴が入れられており、コーディネート別におそらく散財したのだろうということが伺えた。玄関にはブリザードフラワーをドームの中に入れた置物が置かれており、品種は分からないが小さな花がその中で咲き続けている。居間には可愛らしいクッションが二つ、小さなテーブルとテレビがある。テレビの周りには名前の分からない犬のキャラクターものの小物がいくつか並べられていた。
思えば目を覚ました時から違和感はあった。違和感はあったけれど、自分はそれを明確に言葉にはできない。失ってしまった記憶が戻れば答えは出るのだろうが、おそらく戻らないという根拠の無い確信があった。違和感を言葉に出来ないまま、自分は住んでいたらしいマンションに継続して住むこととなった。幸いにも通帳や印鑑の類も無事であり、居続けるだけの資金はまだあったからだ。
それから、とにかく収入を得なければ、という気持ちでアルバイトを始めた。元々何らかの目的があってひとり暮らしをしつつ正規雇用ではなくアルバイトを掛け持ちした生活をしていたらしい。らしいというのはやはりピンとこないからだ。どうやら元々アルバイトをしていた先は全て潰れているようだった。
バイト先を喫茶店にしたのは何となくだった。なんとなくコーヒーの香りが懐かしいような気がして、アルバイト募集と店頭に貼ってあったそこのマスターにすぐに話をつけた。おそらくではあるが記憶を失う前にもこうやって喫茶店で働いた経験があったのだろう。マスターに手際の良さをとても褒められた。
アルバイトは楽しい。常連さんの顔と注文はそこそこ覚えてきた。記憶は一切戻らないが、これはこれで新たに楽しいことを見つけられたからいいのかもしれない。
そんなことを思っていた矢先の出来事だった。
その客はスーツを着た男性だった。注文を取りに行くと彼はブレンドコーヒーとサンドイッチを頼んだ。そうしてからコーヒーが来るまで黒塗りの鞄から一冊の本を取り出し、読んでいた。
そんな客は別に珍しくもなんともない。珍しくは無いが、整った顔立ちが気になったのか、それとも別の理由があったのかは自分でも理解が出来ないけれど何故か目に留まる。注文のサンドイッチとコーヒーをテーブルに置いても本から目を離さなかったがしばらくするとキリの良いところまで読み切ったのだろうか、やっと本に栞を挟みこんで鞄へと閉まった。そしてサンドイッチとコーヒーに手をつける。メインターゲットは女性客である喫茶店の軽食など大した量ではない為、その客はすぐにサンドイッチを食べ終えた。口を紙ナプキンで拭いた後に伝票を持ってレジカウンターへと向かう。
なんてことはない普通の客だ。長時間粘るような悪質な類ではなく、自分の知る限り初めて来店した人。それでもどうしても、頭の隅に引っかかった。一目惚れ?いいやこれはそんなものじゃない。もっと、切実なものだ。彼はこちらが無くした何かの手がかりになる人だ。そんな確信があった。記憶を取り戻してもきっとロクなことにはならないであろうことも。
店を出ていく彼を反射的に追いかける。あとでマスターに謝らなければ、と思うもののそれよりも彼のことの方が気にかかっていた。普通に歩いていた彼に追いつくのは難しいことではなかった。片手には本ではなく端末が握られており、誰かと電話をしているようだった。
「どれだけ待たせるつもりだ。無能め」
部下を叱責しているのだろうか。その口調には非常に聞き覚えがあった。
思えば最初から違和感ばかりだった。何故自分が病院で寝ていたのか。記憶が無かったのか。自分が生活していたはずの部屋に覚えが無かったのか。自分が今まで何をしていたのか。分からないこと、釈然としないことばかりだ。
彼は短く部下に指示を出し、電話を切る。そして後を追ってきたこちらに気づいたらしく振り向く。振り向いた瞬間、ほんの一瞬だけ彼が別の衣装を身に纏っているように見えた。具体的に言うともっとファンタジックというか、和装のような、違うような。一度目を擦る頃にはその幻影は消え、ただのスーツに戻っていた。
「……なにか?」
「い、いえ」
この人は何者だろう。素直にあなたは誰ですか、と聞いて教えてもらえそうにはない。
名前は分からない。けれど自分は、きっとこの人の好きなコーヒーの味を知っている。この人のことを知っている。知っているはずなのだ。スーツに煌めくバッジがついているのが見えた。そう、この人は弁護士で、気難しくて、他人に容赦がない。間違っても「なにか?」とは言わない。
「ああ、えっと、なんだろう。何が言いたかったのかな。私、記憶喪失で、あなたは、私のことを知りませんか?」
馬鹿正直に聞いてしまった。下手をすると警察を呼ばれると思ったが、その人はそうはしなかった。
「……」
その人は何も言わなかった。言わずに背を向けて歩き出した。
もう自分は彼に容赦の無い言葉をかけては貰えない。ただの他人ということだろう。
質問をした後の居心地の悪そうな、悲しそうな表情を私はきっとしばらく忘れられない。彼とはもっと別の思い出があったはずなのに、一つも思い出せない。
おそらく、そのうち彼の表情も顔も、何もかもを忘れて私は別の思い出を作っていくのだ。