あの日の傷痕
「こちらからも触れて構わないか」
治療を終えた航大からそう言われた際、身構えざるを得なかった。既に航大は服を着終えていたが、だからといって安心をしていい場面ではない。一応二人きりで航大は良い歳をした成人男性だ。そんな相手に触れて良いか、と聞かれて素直に頷いてしまえるほどガードが緩くはないつもりだ。
「嫌だと言うならそれでいい」
こちらが警戒をしたと見ると航大はすぐに提案を引っ込めた。こちらの想像したようないかがわしさやよこしまな何かはそこには無い。本当に健全な触れあい、触るだけのつもりだったらしい。
そんな純粋な願いを勝手によこしまな手合いなものと勘違いをした自分が恥ずかしい。別に構わないが、と含みを持たせると航大は納得をしたようだった。
「期待に沿えなくて悪かった」
「そうじゃない」
「いや、分かっている。冗談だ。少し、触るだけだ」
する、と手が伸びてくる。意外にも航大が触れたのは額だった。指で軽く前髪を掻きわけ、つうと優しくそこを撫でる。少しくすぐったくて身じろいだが航大は気にせずにじっとそこを凝視していた。
「額がどうしたんだ」
返事は無い。額の中心から米神の方にゆっくりとした動きで指は動いていく。その間航大は一言も喋らなかった。何も言われない手前気まずくてこちらも口を開きにくい。一度黙ってしまえば更にその気まずさは増していき、黙ったことを後悔する。
そして指は一点の場所でぴたりと動きを止めた。
「薄く跡が残っているな」
ちょうど額と米神の間に位置するその場所を撫でられ、ようやく合点がいく。一度この場所を切って出血したことがある。それも航大の術の被害を受けたせいで、だ。
あの時は自分よりも譲彦の方が航大を殺す勢いで襲いかかっていたし、そもそも航大は鬼化していて正気ではなかった。別に気にしなくて構わないのに、と言えば航大の機嫌は逆に悪くなったようだった。
「そもそもお前は傷を作りすぎだ」
「それは航大に言われたくない。私の二百倍は航大の方が怪我をしている」
「俺はお前の癒術ですぐに治る。お前の力は自分には使えないことを忘れるな」
忘れてはいないし、そもそもそんな大した怪我なんてしていない。それに治るからと言って皆の傷は肯定していいものではない。怪我をして苦しんでいる姿など本当は少しだって見たくは無いのに。
「俺は男でお前は女だ。俺に傷が残ろうと些細な問題だがお前は違うだろう」
「私は気にしない」
傷痕を撫でる手とは逆の手で今度は腕を掴まれる。今度は一体なんだと思う間に袖を簡単に捲られた。声を上げる暇も無い。
「お前が気にしなくとも周りは気にする」
二の腕にうっすら残った傷をそう言ってまた撫でる。この傷はいつ作ったのだったか。列車から落下した時だったか。
「周囲は気に病むぞ」
「……気をつける」
「そうしろ」
分かった。そう頷くと額の傷をなぞる手は離れた。だが航大は腕を掴んだままじっと傷痕を眺めている。
「分かったからそろそろ離して欲しい。あまり長い間戻らないと皆が心配する」
そう急かすように言うと航大はそうだな、とだけ言った。それでも手は離れない。
どれほど時間が経ったかは分からない。ほんの数えるほどだったかもしれないが何十分もそのままでいるように感じられた。誰も様子を見にこないあたり大して時間は経っていないことは分かるが、それでも自分の感覚ではいつ誰かが呼びに来てもおかしくはないくらいにずっとそのままだった気がする。
航大の身体がやっと動いて、この時間からの解放を確信する。もう手が離れるはずだ、そう思っていたのに航大は手を離さないどころか撫でていたその場所に口づけを一つ落とした。
「?!」
悲鳴にならない悲鳴、というのはまさにこういうことを言うのだろう。そしてこちらが固まっているのを良いことに今度は額の傷痕に口づけをする。
「お前に傷がたった一つ残ることすら腹立たしい。そう感じる人間もいることを忘れるな」
言葉を出せぬままこくこくと壊れた人形のように頷くとついに航大はこちらから手を離した。そして何も無かったかのように先に部屋を後にする。
対して自分はあまりの出来事に腰を抜かし、愁が様子を見に来るまでその場から動けぬままだった。