四、

 はっ、と口から入ってきた空気に、長く息を忘れていたのではないかと喘いだ。ぜえはあと仰向けのまま呼吸を整えていると、ぽとん、と額に白いものが落ちてくる。


「そんな酷いありさまで皆の前に出てくるつもりではありませんよね」
「宗三さま…」


 頭上から降りてきた声。
 落とされたのは手拭いだった。
 彼は刀剣男士の中でも身だしなみにうるさい部類に入るというのに、よりによって今日の近侍が彼だったとは。
 何を言われるのだろうと怯えながら、膝の上に乗っている手拭いで額の汗を拭く。全身が汗だくだったので、着替えは自分でするからと彼に伝え奥の脱衣所へ向かった。
 手拭いを濡らして身体を撫でると、さすがにひんやりして心地よい。襦袢も新しいものに変え、寝室に戻る。


「遅いですよ」


 と、宗三左文字が三白眼でこちらを見つめていた。
 下がったと思っていたのに、まだ待機していたのか。そんなに近侍の仕事に積極的ではなかったはずだが。
 疑問に思いつつも謝罪をし、彼が用意していた着物に袖を通す。
 いつもは自分で着付けもするのだが、宗三や歌仙、蜂須賀などは自分の見立てで審神者に着物を着せたいらしく、彼らが近侍になると帯から何から用意しては飾り立てるのだ。


「…どんな夢だったんです」
「え?」
「うなされていたでしょう、ひどく」


 帯を締めながら宗三がぽつりと言った。
 素直ではない、この神さまは、目を逸らしながらもこちらの様子をうかがっている。


「大したことのない、夢です。怖かったような気もしますが、もう忘れてしまいました」
「それはまあ、なんとも。人騒がせな」
「すみません。心配してくださったのに」


 ぷいっ、とそっぽを向く顔は少しだけ赤い。その唇が小さく、心配なんてしていないと動く。


「ほら、居間に行きますよ。朝食なのに皆を待たせてしまうでしょう」


 髪に簪を刺してしまうと、宗三は背を向けて障子を開いた。
 朝日が眩しい。
 待たせてしまうだなんて、むしろいつもより早く支度し終えたくらいなのに。
 音に出すとまた睨まれてしまいそうだったので、口角だけを上げて、その照れ隠しに微笑んだ。

 さて、今日も一日が始まる。
 三日月宗近が来たとはいえ、他には何の代わり映えもしない日が。


「また新しい刀を集めて来たんですか?」


 昼食後、鍛刀部屋の前を通った時に、後ろを歩いていた宗三が声をかけてきた。
 居間から審神者の執務室まで移動する際に、手入れ部屋と鍛刀部屋が並ぶ通路を必ず通るのだ。朝に鍛刀をしておいたから、それが終わったのだろう。


「天下五剣を手に入れたというのに、まだ希少な刀剣を求めるんですね」
「上の方から、三日月宗近さまを鍛刀できたのならばと言われてしまいまして…」


 あの日、三日月が来たと政府に報告をしてから一月ほど経っていた。今までレア刀剣の影もなかった本丸に突然の最高レアを誇る彼が降ろされたということでまた職員が来訪し、苦々しげに去って行くのを見送ったまでは胸のすく思いだったのだが。
 彼一人が来たところで劇的に戦力が増強されるということでもない。度重なる鍛刀のせいで人数だけはいるが、練度は皆決して高いとは言えず。結局、変わりのない戦績に嫌味を言われ続けているのだ。


「確かに地力の高い方々が増えれば、戦も楽になるのかもしれませんが。それよりも、時間がかかっても、皆さまの練度を底上げする方が戦力は充実すると思うのですけれど」
「貴女に僕を使う気があるのなら、それで良しとしましょう」


 ため息を吐きつつも納得したのか、彼は鍛刀部屋の引き戸を開ける。
 宗三の後に続いて中に入ると、出来上がったばかりの刀が、刀掛けに鎮座しているのが見えた。


「…これは。また、新しい方が?」
「この、刀は…」


 初めて目にする拵に驚きの声を漏らす、その横で宗三が手を口に当てているのに気付いた。
 呆然と、信じられないものでも見るかのような眼差し。


「どうなさったのですか?こちらの刀剣が、どうか」
「早く、早く顕現させてください。ああ、お小夜はどこに」


 そう声をうわずらせて、踵を返すと部屋から出て行ってしまった宗三にポカンと口を開ける。
 一人刀の前に取り残されてしまって。どうすればいいのだろう。
 それでも宗三は早く顕現してくれと言っていたし、このままこの刀を放置しておくわけにもいかない。そう気を取り直して刀剣に意識を集中させる。
 祝詞を上げて、伏せていた瞼をゆっくりと持ち上げれば、そこには。


「…江雪左文字と申します。戦いが、この世から消える日はあるのでしょうか…?」


 長く青白い髪、鋭い眼光に一瞬どきりとする。けれどその装いはつい先ほどまで隣にいた彼と似た面影。


「江雪、左文字さま…」
「ええ」
「あ、そうだ…さっき、宗三さまが小夜さまを呼びに行かれて」
「弟たちも、いるのですね」


 最初に聞くのが戦のことでなく、安堵しました。そうゆっくりと語った彼は、そういえば聞く話によると戦を嫌っているらしい。
 ならば彼は何のために顕現するというのだろう。刀剣男士として、戦のためでないというなら。
 憂うように俯きがちの顔を眺めていると、外からパタパタと足音が聞こえた。軽いそれらはきっと彼の弟たちのものだろう。
 歓迎会の準備もしなければ。行きましょうと声をかけて敷居を跨ぐ。
 と、後ろから声をかけられた気がした。


「?すみません、何かおっしゃいましたか」
「ええ…。約束を、」
「約束?」
「そう、あなたは…」


 小さい声に、半分外へ出ていた身体を中へ戻す。
 そうして聞こえた言葉は。


「悟ることが、できましたか」


 何のことですか、と問い返そうとして、それは近づいて来た宗三と小夜の呼びかけに遮られた。
 兄さま、と口々に呼んで近寄る彼らの様子はとても嬉しそうで。江雪もまたそんな弟たちを微笑ましげに見つめていて。
 だから、あの意味ありげな言葉なんて、すぐに思考の隅へ追いやられてしまったのだった。







2016.12.20投稿