バビログラードを当てもなく歩いている時だった。
 突然ぶわりと全身に鳥肌が立つような感覚がしたと思ったら、数秒後に蒼獣の聖殿から何かが大空へと登っていくのが見えた。
 かつてないほど大きく聞こえる心音に戸惑いつつ、何かに惹きつけられるように足を動かす。景色がただ過ぎて行く。ただ足が石畳を進む。
 と、前方から賑やかな音が聞こえてきた。


「早く街の外へ行こうヨ」


 ぱっ、と視界が鮮やかになった気がした。
 声のした方へ全神経を研ぎ澄ませると、そこには不思議な集団。その中でとりわけ目を引いたのは、赤色の少年だった。


「……アタシは生まれた。アタシは……誰?」


 知らずに唇からこぼれた言葉。それが聞こえたのか、少年は目を丸くしてこちらを見つめた。


「君は、誰?」
「マオ、どうした?」


 急に立ち止まった彼を不審に思ったのか、側にいた緑の青年までもが足を止める。
 それでもなお止まらない不思議な感覚に、言葉も交わさぬまま少年と見つめ合うことになった。
 もはやこの異常な様子に少年の一団は皆揃って振り返り、何事かと窺っていた。


「マオ、知り合いか?」
「ううん…わかんない。でも、すごく懐かしいような。そんな感じがするんだ」
「ふむ…記憶をなくす前に親しかった存在という可能性もあるな――すまないが、君の名前を教えてもらえないか?」


 黒豹のガジュマが顎に手を当てて何かを考えていたかと思えば、視線を合わせ話しかけてきた。
 ヒトと話したことがないことはないが、それでも他人との会話など久しぶりだったためにひどく戸惑う。



「あ…あ、アタシ…」


 目線を彷徨わせながらうろたえていれば、少年が駆け寄り笑顔を向けてくれた。


「ごめんね、怖がらせちゃったかな?ユージーンは見た目はああだけど、すっごく優しいヒトだから。安心して!」
「マオ…」
「ほら、せっかく怖くないって言ったんだからコワイ顔しないでヨ!」


 くるくると変わる表情と声音。少年の賑やかさにふと胸の奥が涼しくなった。


「マオ」


 そんな彼の熱が自分の中にも生まれるかもしれないと、その名前らしきものを呟いてみる。すると彼はきょとんとした。


「何でだろう、すごく懐かしいような。でも、君の声で呼ばれるのはその名前じゃない気もする」
「アタシも、そう思う」
「ねえ、やっぱり君の名前を教えてヨ!ボクも君のことを呼んでみたら、何かわかるかもしれない」
「アタシの…名前」


 ふと考えてみる。


「名前…わからない」


 言った途端、少年だけでなく全員が目を見開いたのが見えた。


「むう…どうも様子がおかしい。一年前のマオと同じ状態なのかもしれないな」
「一年前のボク?」
「自分が誰かわかっていない…のか?」
「何だって?知り合い同士仲良く記憶喪失ってか?どーすんだよそれ」
「とにかく…もっと落ち着いて話ができる場所に移動したらどう?」
「そうです。彼女、びっくりしてますよ」


 あちらこちらから聞こえてくる声に混乱していると、いつの間にか彼らに着いて行くことが決まっていたらしい。少年に手を引かれて歩き出す。
 しかし、数歩進んだところで急に彼は振り返った。


「もしかして、シャオルーンなら何かわかるかも!」
「シャオルーン……」
「シャオルーンが?どうしてだ?」
「んんー、ほら!クレアさんのこととかも教えてくれたでしょ。ボクたちに関わることなら、何か知ってるんじゃないかと思ってネ」
「そうか…行ってみよう」


 あれよという間に、どうやら彼らに着いていくことになったらしい。


「みんな、待ってたよ!」


 バビログラードから出ると、風をきって上空から滑り落ちてきた何かに捕まえられた。足元に広がる景色はとても小さく見えたけれど、それが何故だか無性に懐かしかった。


「あれ?何だか懐かしい気配がするね」
「シャオルーン!君もそう思うの?」


 上を向いて声を上げたマオにつられ、目線を上へやると巨大な生物がこちらを覗き込んでいた。
 驚いて仰け反るが、ますますそれはこちらを見つめる。


「はじめまして、なのかな?ぼくはシャオルーン!よろしくね」
「シャオルーン…」
「きみは――」

 シャオルーンが何かを言いかけて止める。不思議に思い、助けを求めるようにマオの方を見ると、彼はハッとした顔をしていた。


「もしかして、これってナイショ話?」
「うん。ぼくときみとその子だけのお話。マオ、きみはまだヴェイグたちにきみのことを話していないんだろう?」
「うん…」
「話すのも話さないのもきみ次第だけどね。この子のことを話すなら避けられない話題だから」
「じゃあ、やっぱり彼女はボクと同じーー聖獣につくられた存在なの?」


 じっ、と一人と一体から注視される。話にもついていけなければ、その視線も相まっていたたまれない。


「ううん…ぼくたちはマオ、きみしか生み出さなかった」
「え?」
「でも近いものを感じ――彼女はきっと、ゲオルギアスにつくられた存在だ」
「ゲオルギアスだって!?」
「ねえ、きみ。きみは名前がないみたいだね。今までどこで何をしていたの?」


 驚くマオをよそに、シャオルーンは彼女に問いかける。


「アタシは…気付いたらバルカの側にいたの。だからバルカに行ったんだけど」


 誰もアタシのこと知らなくて。
 彼女は虚ろな瞳で言った。


「何をすれば良いのか、どこへ行けば良いのかわからなくて」


 しばらく隅のところでうずくまっていれば、兵士に通報された。質問されることに答えられないでいると、冷たく暗いところへ閉じ込められた。


「それでずっとそこで過ごしていたのだけれど、ラドラスの落日の騒ぎでそこが壊れて。ふらふらしてたら王城に連れて行かれて。解放されたんだけど、故郷がわからないからって港町のバビログラードに送られたの」


 話し終えて一人と一体の方を見やると、両方とも眉をハの字に下げていた。
 頭を抱えたマオは、あちゃー、と深いため息を吐く。


「ゲオルギアスがきみの目を通して世界を見ていたとしたら、って考えると怖くなってくるヨ…」
「きみって相当運が悪いんだね」


 知らない単語と、よくわからないことを言われて首を傾げていると、マオがぎゅっと両手を握ってきた。


 握られた手のぬくもりに浸る。ヒトとはこんなにも温かかったのか。
 そんなことを考えてぼうっとしているのをどう捉えたのか、マオはますますしっかりと手に力を込めてきた。


「ねえ。ボク、キミに名前をあげるよ!それで、ボクたちの仲間になってヨ!」


 きらきらと瞳を輝かせながら、彼は言う。


「キミはまだ知らないかもしれないけど、世界って広いんだヨ。楽しいことも、美味しいものも、優しいヒトもーーとにかくいっぱい!だから、それを見に行こう!知りに行こう!」
「そんなに?」
「うん!ボクはキミと一緒に行きたい。…ダメ?」
「わかった。アタシに世界を見せて。教えて」
「やったあ!じゃあ、これからよろしくネ、ナマエ」
「ナマエ?」
「そう、キミの名前」
「ナマエ…」


 もごもごと口の中で反復する様子に不安になったのか、マオはこちらを窺う。


「えっと、気に入らなかった?」
「ううん。ナマエ…ナマエ、アタシはナマエ。アタシはナマエだよ」
「うん!ナマエ!」
「ありがとう、マオ」
「!!」


 大きな瞳をまんまるに見開いてこちらを凝視するマオに、ナマエは困ってしまった。しかし彼はすぐに首をふって否定する。


「違うんだ、何がとかじゃなくて…。ナマエが笑ったから」
「アタシが?」
「うん!ヴェイグみたいに凍りついたような顔をしていたのが嘘みたいにステキな笑顔だったヨ!」
「そうだね、これからきみは色んなものを見るといい」
「シャオルーン!」


 今まで黙っていたシャオルーンも、優しげな瞳でナマエを眺める。


「さて、そろそろナイショ話はおしまいにしよう。次の聖獣が待ってる」
「あっ!そうだね。みんなも待ちくたびれちゃう」
「うん。マオ、ナマエ。きみたち姉弟がぼくらに見せてくれるもの、楽しみにしているよ」


 そう彼が切り上げると、再びたくさんの視線が戻ってきた。


「何だ、何だあ?またあの時みたいに他の奴らには聞けない会話をしてたのか」
「シャオルーンと何を話していたんだ?」
「ボクとナマエが…」
「ナマエ…さん?」


 アニーの問いに、何かを考え込んでいたらマオは得意げに胸をはった。


「そう、ナマエ!ボクのお姉ちゃんなんだ!」
「マオのお姉さん?」
「家族だったのか」


 突然言われたことに驚く。だが、それ以上に誰かと繋がりができたことが意味もわからず嬉しかった。
 だからかもしれない、思わず言ってしまった。


「はい!マオの姉、ナマエです。みんな、どうぞよろしく」


 飛び込んだ仲間の温かさは、とても、とても心地よかった。








2016.02.08投稿