「ヴァン師匠!」
「ヴァンさま!」


 王都バチカルのファブレ邸に、二つの声が響いた。続くのはバタバタとした足音。それを咎める教育係の怒声。


「二人とも、迎えに来てくれるのは嬉しいが邸を走りまわるのは感心しないな」
「うっ…すみません、師匠」
「ごめんなさい、ヴァンさまぁ」
「わかれば良い。ルークは早速稽古を始めようか」
「はいっ!」


 頷いた青年――ルークは、返事をするや支度をするために自室へ飛んで行った。その背は、犬ならば尻尾がぱたぱたと動いているように見えるだろうほどに喜びで溢れている。
 そして、その場に残った少女――ルークの妹、ナマエもそれは同様であった。


「今日もナマエは見学をするのかな」
「はい!ヴァンさまの剣技は、とおってもかっこいいですから」
「はは、剣の打ち合いを見て面白がる姫君も珍しい」
「剣の打ち合いでなく、ヴァンさまを見ていたいのです!」


 拳を胸の位置に持ってきてぷりぷりと怒ってみると、彼はそんなナマエの頭を撫でて諌めた。そんなことでごまかされはしないぞと思いつつも、少女は頬を赤らめて大人しくなってしまう。
 昔から、兄の剣の師として邸を訪れる彼のことを、ナマエはたいそう慕っていた。初めは兄のように。そして段々とそれを恋だと自覚してからは、その気持ちを隠さず懸命に彼の側にいようとしてきたのだ。
 そんな歳の離れた少女から向けられる好意を、ヴァンが本気にしているのかいないのか、まだナマエは計りかねている。


「さて、それでは中庭へ行っていようか」
「…はい!」


 それでも、少女はしあわせだった。
 貴族らしい嗜みも、礼儀もあまり覚えようとしない、幼い印象のナマエは他の貴族から良く見られていない。記憶をなくし、邸に軟禁されている兄と合わせて陰口を叩かれていた少女に、彼は分け隔てなく接してくれた。だからヴァンさえいれば、それだけで良かったのだ。


「ヴァンさま、もう帰ってしまわれるのですか?」
「もうルークとの稽古も終わったからな。また次の稽古の時まで待っていなさい」
「でも、稽古の時ではお兄さまとばかりお話して。…わたしのことは構ってくださらないわ」


 つんっ、と横を向いて抗議する。
 帰り際のヴァンを人気のない廊下で捕まえて、ここぞとばかりに文句を言ってみたのだ。


「…稽古の日よりも前に、所用でバチカルを訪れる日程がいくつかあったな」
「!」
「邸の外でなら会えそうだ。如何かね?」
「そ、それは…その…逢引きのお誘い?」
「はは、それでもよかろう」


 ドキドキと高鳴る胸を押さえて、上目遣いで尋ねた。その答えにナマエは天にも昇る心地になる。


「か、必ずですよ!忘れないでくださいませね!」
「ああ、約束しよう」


 その約束通り、ヴァンはお忍びでナマエを連れまわしてくれた。人目につかぬよう、市民街のひっそりとしたところでの逢瀬だったが、彼がいれば少女はどこでも良かったのだ。
 そうして、度々邸を抜け出してはヴァンと会うことを繰り返していた時だった。


「…どこへ行かれるんですか、お嬢様?」
「!ガイ…」


 警備の隙をついて出かけていたはずなのに、何故かいつもの出口にガイが立っていた。
 普段の優しげな顔とは違う、眉根を寄せた険しい表情だ。


「どいてください、ガイ。お願いよ、見逃して」
「お嬢様…ヴァンと会っているっていうのは本当ですか」
「な、何で…それを」


 と、そこで何か違和感を覚える。
 しかし、思考を巡らす前にガイがなおも迫ってきた。


「お嬢様、お止めください。ヴァンは何を考えているのか…危ない目にあったらどうするんです!?」


 ヴァン。そう、彼は言った。
 ファブレ家の使用人が、彼をそう呼ぶことなど普通はありえない。
 常々感じていた疑惑が、ナマエの中でスッと解けた。


「…そう」
「お嬢様?」
「やっぱりあなたたち、仲間だったのね」
「!?」


 ガイの手が剣にかけられる。
 それでもナマエは動じることはなかった。


「あなたも、ヴァンさまも…たまにこそこそ二人で話しているし、ふとした時にこわい目で父上を見ているんだもの」
「…どこまで、」
「それに、ガイ…セシル家のことだって少し調べればわかるわ」
「これは、とんだお嬢様だったな」


 周りがナマエのことを馬鹿だと思っているのは好都合だった。陰口を叩かれるのはともかく、少し頭の足りない幼い少女を演じていれば、口が軽くなるものもいる。それで心を許してしまう者もいる。貴族たちの社交界を渡るうちに身につけた処世術だった。


「でも、あなたがヴァンさまに利用されようとしているわたしを止めようとするなんて、予想外だったわ。どうして?」
「ふ…まあ、長くお世話してりゃ情も移るってもんさ」
「そうなの。でも、それは兄上に全部とっておいて」
「お嬢様は、どうするんだ?利用されてるとわかってるのなら…」
「いいの」


 ナマエは微笑んだ。


「利用されていても、いいの。愚かなわたしなら…ヴァンさまはわたしを利用してくれる。側にいられるのよ」
「そんな、」
「お願いよ、ガイ。黙っていて」
「…くっ」


 苦しげな表情で、ガイは塞いでいた出入り口から退いた。
 仇の娘の状況にそんな顔をするなど、なんて優しい人なんだろう。わずかに申し訳ない気持ちがわいたが、それでも足を止める気にはならなかった。


「安心して、ガイ。あなたたちのことを誰かに言ったりはしないわ」
「だろうな…それならとっくに邸から追い出されているはずだ」
「うん。ヴァンさまはともかく、あなたが兄上に何かするとは思えないもの」
「…はっ、そりゃ信用されたもんだ」


 すっかり砕けた口調で話す使用人に苦笑いをして、ごめんと一言、ナマエはその場を後にした。


 いつもの場所で、目立たない服装で待つヴァンに、ナマエは背後から抱きついた。気が付いていたのだろう、彼は笑ってナマエをくるりと正面に移動させた。


「遅かったな」
「ごめんなさい。来る時に、ガイに見つかってしまって」
「…ガイに?」
「大丈夫です、ちゃんとごまかして来ましたわ!彼、女性恐怖症なんだから。わたしを止められるわけありませんのにね?」


 ふふっ、と朗らかに笑う。それ以上の追求もなく、どうにかごまかせたようだ。
 彼の中のナマエは、愚かな、恋に浮かれて恐れを知らない少女。そんな存在でなければ警戒されて側にはいられない。


「それで、今日はどちらに連れて行ってくださいますの?劇場?お店?そうだ、わたし一度酒場というところに行ってみたかったのです!」
「そんなところには連れていけないな。もしものことがあったらいけない」
「もしものこと?大丈夫よ、ヴァンさまが護ってくださるのでしょう?」
「それは嬉しい評価だが…まだナマエには早いだろう」


 たわいない会話を繰り広げて夜の街を歩く。
 いつ壊れるかもしれない関係に切なさを覚えながらも、慕う者との時間を離すものかとぎゅっと腕にしがみつく。


「どうした?」
「…少し、寒くて。薄着をしてきてしまいましたから」


 そう言ってはぐらかしたが、じわりと滲む視界を止められずに思わず俯いた。
 ファブレ家の者として教育され、少しは達観したような気持ちでいたが、まだナマエは少女だった。ガイと話して、彼らが本当は自分を憎んでいるのだと再確認してしまった。そのショックを隠しきれないほどには、まだ幼かった。

 さすがに様子がおかしいことに気が付いたのか、ヴァンは肩を掴んでナマエの顔を上げさせた。
 醜い泣き顔を見られたくなくて、手で覆い隠そうとしたが、それも防がれる。


「やはり、ガイと何かあったのか」
「ちがいます、何も…」
「ガイと何を話した」


 今までに聞いたことのない低い声。怖いはずなのに、それでも新たな一面を知れたと喜んでしまうなど、もう末期かもしれない。
 そんな気持ちと反面、流れ出した涙は止まらない。


「わ、わたしは…好きなのに。なんで、ファブレ家に生まれたのっ」
「…やはり、ガイが話したのか」
「ちがっ、ちがいます!もっと前から…知ってたわ!気づいてた!知らないふりしてたの、に」


 今日はガイの言うとおり、止めておけばよかった。ついに感情にまかせてボロを出してしまった。もう、すべておしまいだ。


「――ナマエ」


 名を呼ばれ、ひくりと肩が跳ねた。
 その続きは聞きたくない。


「ヴァン、さま…」
「ナマエ」
「…はい」


 絶望とともに、ついに諦めて返事をした。これでもう、楽しかった時間も幕引きか。
 そう思い、自嘲の笑みを浮かべた。
 だが、ヴァンの口から出たのは信じられない言葉だった。


「私とダアトに来るか」
「――え?」


 あっけにとられてまじまじとヴァンを見つめる。
 あろうことか、彼は微笑んでいた。


「ファブレの名を疎むのなら、全てを捨てて逃げてしまえばいい。私がお前を攫ってやろう」
「そんな…だって、みんな心配するわ。母上なんて、特に」
「本当にそうかな?」
「え?」


 何を言っているのか理解できずに聞き返す。
 すると、彼は語った。預言によってルークが殺されようとしていること。父であるファブレ公爵はそれを止めようとしないだろうこと…そして、


「わたし、死ぬの?」


 実感のないまま、問い返した。
 重々しい雰囲気でヴァンが頷く。


「いつ言い出そうかと思っていたのだ」
「だって、わたしはあなたたちの仇の娘で…」
「だが、所詮は仇の"娘"だ」
「!」
「私にも妹がいてな、一心に慕ってくるお前を見ていれば重ねてしまうのも仕方のないこと」


 妹。そんな言葉に、こんな話の最中だというのに少し傷付いてしまう。
 けれど、それでも、ナマエ自身を憎く思っているわけではないことに、ひどく安堵した。


「さあ、どうする?ナマエ」


 そうして、差し出された手。
 考えればわかる。預言のことだって、父のことだって、確たる証拠を見せられたわけではない。ヴァンの言うことすべて信用できるかと言ったら、そうではないはずなのに。
 冷静な自分が警鐘を鳴らして止めるけれど、そんなことも全部、ナマエにとってはどうでも良いことになっていた。
 慕う人が、自分を許し、共にいても良いと言っている。わたしが手を取るのを待っている。
 胸が高鳴り、瞳が潤む。
 ナマエはこの上なくしあわせだった。
 だから一言、震える唇で答えた。


「わたしを、攫って」


 そんなつもりではなかったのに。演じていただけのはずなのに。
 ナマエはどうしたって、恋に浮かれた愚かな娘にしかなれなかったのだ。







2016.05.29投稿
2016.06.02改稿