「石田三成は、悪人だ」
藤堂高虎は素っ気なく言い放った。もう何度聞かされたか分からないその言葉になまえもすっかり、石田三成という顔も見たこともない男をただ呆然と悪人だと認識していた。
高虎の顔が赤い。どうやら十分酒がまわっているようで、彼の口は今になく饒舌に石田三成へと悪態を溢していた。
「さようでございますか」
なまえは話を聞いて適当に相槌をしている。普段であれば「おい、飽きるな」と言われてしまうが酒の力とは偉大である。高虎はよほど同意されることが嬉しいのだろう、幾分か満足げであった。
しかしなまえの心境は複雑である。
高虎は、天下人の秀吉が亡き今、徳川家康に忠誠を誓った。
不安が高まり時の揺れ動く今、実は彼女、来るであろう戦に備え、豊臣側の城の内情を侍女として確認してこいと命ぜられているのだ。
──つまり、豊臣側である石田三成との接触が避けられない。いくら忍びといえどここまで悪人だと吹き込まれてしまっては先入観が先走り余計な身構えをしてしまう。
饒舌に話し続ける主君に、なまえは尋ねた。
「藤堂様、何故そこまでして石田三成の悪い噂ばかり話されるのです?」
「それはお前が心配だからだろう」
「いくら私とて、忍びの端くれ。それに、女官団で交わされる噂に聞き耳を立ててくるだけでございます」
なまえがそう続けて言うと、高虎は黙った。かわりに並々注がれた酒を一気に飲み干す。
確かになまえは心配の及ばない優秀な忍びであると高虎は認めている。だからこそ今まで重宝してきたし、彼女を死地へと行かせることも多かった。
……しかし、それとは別に、個人的な願望──他の男へ必要以上に接近させたくないという、彼の密かな想いが思考に水を差す。その感情は非常に厄介で、一度自覚してしまえば、彼女に悟られぬように抑えることがやっとであった。
酔いのまわった頭がだんだんと痛みを伴い、高虎は頭を押さえた。
「……あいつは」
「はい」
「あいつは頭脳明晰だ。そのうえ勘が鋭く、警戒心も強い。だから、あまり接触しないほうがいい」
「……承知」
高虎の口から悪態以外の言葉が出たのでなまえは至極安心した。素直に忠告を受け入れると、力が抜けたように高虎は杯を置いてため息を吐く。「寝床を用意させましょうか」となまえが尋ねると彼は首を横に振り、おもむろになまえの膝の上に頭を乗せてまた小さく唸った。
「……少しだけ」
唸り声とともに蚊の鳴くような声で言う。その様はまるで幼子のように見えるほどしおらしい。
「ええ、ええ」
なまえは袖で口元を隠しながら可笑しそうにくすくすと忍び笑った。高虎は気にしない様子の彼女に安心し、次第に力を抜いていくのであった。たとえこの距離感が、主従関係からくるものであったとしても、高虎はそれでも良いと瞼を落とす。
時は未だ乱世。仮初の泰平。
強固な契約関係の方が忍である彼女を、確実に手元に置いておける。高虎はそのほうがよっぽど安心ができた。
戦が引き起こす死別。裏切り。謀反。
それらが無縁となる真の泰平の世は、きっと近い。それが訪れたら……その時にこそ、秘めるべくしたこの想いを伝えたい。
高虎は酔いの回った頭でやけに冷静に、そんなことを思った。