千手扉間は無駄を嫌う。
それは戦や政(まつりごと)に限った話ではなく、私生活においても例外ではなかった。効率と合理を重んじる彼にとって、生活の場とはただ心身を休め、次なる任に備えるための空間に他ならない。

久方ぶりに訪れた一室。
睡眠のためだけに用意されたかのような空間は実に簡素で、そこにあるのは棚の中に整然と収められた巻物と忍具、そして少しばかりの薬品。壁に掛けられた薬草の束からは、微かに苦い、しかしどこか懐かしい青い香りが立っていた。

訳あって数週間もの間、手付かずだったその部屋は、どの調度品にも薄っすらと埃が被っている。
扉間はしばし立ち尽くし、その有様を見て不愉快そうに眉間に皺を寄せた。

指先で棚をなぞれば、濃い一線ができる。外の喧騒を遮断したまま、ただ時間と埃だけを積もらせていった空間に、重い溜息が一つこぼれた。

小さく舌を打つと、観念して袖口を捲り上げる。棚の奥から雑巾を取り出し、まずはこの静まり返った空間を、元の正しい形へ整理しようと動き出した。

窓を開け、新しい風を入れる。ふわりと心地よい空気が頬を撫で、木々の擦れ合う爽やかな音と、雲一つない美しい空が瞳に映る。
だが、遮りのない空から降る眩しい陽光は、今の扉間にとっては些か、鬱陶しさが勝るものでしかなかった。



* * *



──時は戦乱。
大人も子どもも関係なく武器を振るい、血を流すこの世では、生まれ落ちる命よりも斬り落とされる命の方が遥かに多い。度重なる激戦を経ずとも、次第に痩せ細り、消滅の途を辿る一族も少なくなかった。そうした者達が生き永らえるために選ぶ道は、より強大な勢力へと吸収されることである。

忍の中でも最強格と謳われし千手一族の元へ、絶える寸前の者たちが身を寄せてくることは決して珍しくなかった。無論、手放しに歓迎するわけではない。そこには一族を守るための冷徹な品定めと、慎重な協議という高い障壁が存在する。

しかし、当主が千手柱間に代替わりしてより、その障壁はかなり低くなったといえよう。両手を広げて歓迎する柱間の姿勢が功を奏しているのか、それとも彼の弟である千手扉間の堅実な政策が支えているのか。どちらにせよ森の千手一族は、こうした要因を孕みながらも、着実に強大化を続けていた。


「扉間様」


部屋の清掃を終え、袖を払いながら屋敷から出てきた扉間に、静かに近寄る影があった。
年頃の女子(おなご)らしからぬ、愛嬌を排した硬い声。そんな声で迷いなく己の名を呼ぶ人間は、一人しかいない。
──少女の名は、名前という。

彼女もまた、千手に身を寄せた一族──否、唯一の生き残り。歳は扉間より幾分か下ではあるが、戦場においては一番槍を進んで担い、男顔負けの武功を上げることで知られている。その肌に刻まれた生傷の多さは、歴戦の猛者たる所以を語ると同時に、未だ幼さの残る容貌も相まって、どうしても扉間に亡き弟たちの姿を想起させた。

扉間の視線は、彼女の左腕に向かう。先の戦で負った裂傷がそのまま、痛々しい赤黒い一閃を残していた。

彼女の果敢さは評価に値する。しかし同時に、若さゆえの視野の狭さ、何より自暴自棄にも似た生き急ぎがあることを、扉間の目がその傷同様に、見落とすはずはなかった。

名前が二の句を継ごうとしたところを、扉間は低い声で制する。


「……待て。話をする前にまずは、その雑な傷の処置を正してからだ。来い」


傷薬だけが塗られ半ば放置された彼女の腕の傷を、扉間は一瞥し、背を向けて歩みを進める。
名前は一瞬だけ僅かに目を見開いたが、慌てたようにその後を無言で追ってきた。戦地では勇猛果敢に駆ける彼女だが、今の足取りは、まるで雀のようにちょこまかとしていて落ち着かない。

──名前は千手に下ってより、決して拒否をしない娘だった。
否、寡黙というべきか。己の立場の弱さを危惧してか、とにかく必要最低限の口数で、与えられた役割だけを淡々とこなすきらいがある。その従順さが、今の扉間には少しばかり辛気臭く思えた。

屋敷の中へ彼女を入れると、縁側に座るよう顎で促す。扉間は自室から傷薬と包帯を持って戻ると、間を置かず彼女の隣に腰を下ろし、その腕を取った。
まともな手当てをされずに放置された傷は、とうに乾き、痛々しい跡となっている。もう少し早く適切な処置をしていれば、傷跡として残ることはなかっただろうに。

──貴様は女子(おなご)なのだから、もう少し己の身に気を遣え。

喉元まで出かかった言葉を、扉間は無言で飲み込んだ。
恐らく戦いでしか自らの価値を見出せないでいるであろう娘に、今さら女としての在り方を説くのは無意味で、それ以上に酷だと分かっていたからだ。

沈黙の流れるまま、指先で丁寧に軟膏を伸ばしていく。しっかりと包帯を巻いて留めてやると、名前はその腕を、何か珍しいものでも見るかのようにじっと見つめた。


「……包帯を巻くのが、苦手で」


​ぽつりと口から零れ出た言葉は、あまりにも拙く、どこか言い訳じみていた。なんだかそれが妙に可笑しくて、扉間は僅かに口元を緩めて息を零した。


​「存外、貴様は不器用か。あれほど戦場では巧みに得物を扱うというのに」

​「……お褒めに預かり光栄です。しかしながら、戦場での立ち振る舞いは、ほとんどが反射のようなものです」


​名前は腕に巻かれた包帯に視線を置くと、そのままゆっくりと撫でた。己の腕であるはずなのに、まるで違う生き物にでも触れているかのような、恐る恐るとした手つきである。

​扉間はそれを見て僅かに目を細めた。しかしそれは一瞬で、すぐにいつもの冷静な色を戻すと、改まって彼女に向き直り、口を開いた。


​「……それで、用件は?」


​その問いかけに、名前は思い出したように顔をあげる。


「はっ。皆、戦の後で多忙にしておりますゆえ、僭越ながら私から、集落の近況報告をさせて頂きたく……」

「そうか、頼む」


名前は扉間の短く発せられた言葉に頷くと、懐から紙を取り出し、淡々と言葉を連ねていった。消耗品の在庫状況や戦死者や怪我人の数、留守中に集落で発生した出来事の共有──そして、近頃うちは一族から亡命する者が増えているという事実。それらはすべて、滞りなく正確に扉間へ伝えられた。

報告が終わると名前は小さく一礼する。扉間は顎に手を当て、少し考える素振りをみせた。
集落の近況については勿論のことだが、扉間の関心は名前にも寄せられている。

彼女の戦での武功、報告を任される仲間からの信頼の厚さ、一族への忠誠心。生真面目な性格と、将来の有望性。

──この人物を、ただ戦いのみに消費するのは惜しい。


「名前」


扉間はまるで思いついたかのように、彼女の名を呼んだ。


「貴様、オレの傍で働く気はないか」

「……それは」

「オレの側近になれということだ。貴様はまだ若い。オレの元で学び、力を付け、その才を未来のために伸ばす気はないか」


──その宣言は、一介の忍でしかない彼女にとって、人生が一転する誘いであった。
名前は予想だにしていなかった事態に、かつてないほど動揺の色を濃く露わにした。眉間に皺が刻まれ、瞳は忙しく揺れる。そしてひとつ、汗が垂れた。

名前は戸惑っている。いや、悩んでいるのか。
どちらにせよ、暫く発する言葉を慎重に探した彼女は、絞り出すように声を零した。


「私は、分家や遠戚といった、正当な千手の者ではありません。ましてや、この腕は筆を持つよりもまず、武器を手にしたと言っても過言ではない。そのような者が扉間様の側近という大役を務めるなど、あまりにも……」


揺れる瞳と共に落ちたのは、あまりにも真っ直ぐすぎる懸念と卑下。だが、扉間は確信している。この僅かな時間の中で彼女は、側近として己がどのように機能するのかを考え、また、周囲からの見え方も考慮したことを。名前の出した結論の正しさは置いておいて、扉間はこの思考の速さを高く評価した。

扉間は唐突に、ずい、とその身を乗り出して彼女との距離を詰める。すると名前は肩を揺らして少しだけ背を後ろに倒した。扉間の赤い瞳が、彼女の瞳を鋭く射貫く。


「っ……」


扉間の冷たく、しかし奥底に熱さが滾るその瞳に、己の未熟な顔が反射している。
──名前は元来、彼の何もかもを見透かしてしまうような、この瞳が苦手だった。
決して自身に後ろめたいことはないはずなのに、"何か"を咎められるのではないか。そんな気がしてならず、焦燥が湧く。そもそも、一族を束ねる長の弟君──温和な柱間と違って冷徹な判断を下せる扉間を目の前にして、落ち着いていられるほうが珍しくあろう。

だが、扉間はそんな彼女の胸の内を意に介さず迫った。


「貴様は少々思い違いをしているな。オレは貴様の能力を評価し、指名したに過ぎないが……まあいい、他の理由が欲しければいくらでもくれてやる」


すると扉間はまるで聞き分けの悪い子どもを諭すかのような、幾分か柔らかく感じる声色で言葉を続ける。


「……里の長たる兄者はな、本当の平和を望んでいる。貴様や俺のように、幼くして戦場に赴かなくていい、そんな世をな」

「……」

「千手はこれから一族の枠組みを超えていかねばならん。そのためには、政の中枢に千手の者ばかりが連なってはならんだろう」

「……そこに、私を……」


名前は言い淀みながらも、扉間の考え、柱間の理想について、必死に理解しようとしていた。
そして暫くの熟考の後、名前の瞳は再度扉間に向かった。彼女の表情にはやはり困惑や動揺が色濃く残っていたものの、ひとつ、別の感情が滲んでいる。

名前は意を決したように、しかし申し訳なさを携えながらもようやっと口を開いた。


「少し、考える時間を頂戴したく存じます」

「……良かろう」


扉間の頷きをもって、名前は千手の屋敷を後にした。半ば逃げるように歩を進める度、屋敷に置かれた扉間の気配が薄くなる。強ばっていた体は次第に弛緩し、まるで身体中にきつく巻かれた紐が緩んで解けていくような心地だった。

名前は歩を止めて、腕に巻かれた包帯を撫でる。
まるでゆっくりと、なにかの余韻を確かめるように。


「……今日も、大丈夫だった」


ぽつりと零れた言葉には確かな安堵と、切実さが混ざっている。

──時は、すっかり夕暮れていた。
彼女の頬が濃く染まり、瞳が物憂げに揺れるのは、恐らく西日のせいだろう。


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