──名前は孤独を知っている。
かつて属していた一族は、男も女も幼くも問わず全ての者たちが戦場に出向き、果敢に刃を振るっていた。戦場こそが居場所とでも言うような、まるで鬼神の如き命を顧みないその戦ぶりは、うちは一族や千手一族ほどではないにせよ、多くの大名から徴用され、その名を轟かせていた。
しかし、文字通り身を削る戦い方であったがために、その末路は想像に易かろう。名前が一族のことで最後に憶えているのは、返り血で霞む視界の中、誇らしげな表情のまま血の池に沈む亡骸の山だった。その時、既に敵勢力は撤退し、刃を交えるべく相峙する相手はもういない。そうなればそこは戦場ではなく、墓地と称する他なかった。運悪く生き残ってしまった自分は、さながら墓参者といったところか、勝利の味など感じやしない。
掌で同胞たちの瞼を下ろし、安らかであれと願うあの瞬間は何とも筆舌し難い。そして、自分の最期を見届けてくれるはずであった親しい存在を失ったこの世は、死よりも酷く、虚しいものだった。
* * *
己を迎え入れてくれた千手一族に報いるため、恩義と忠誠の名の下に名前は人一倍よく働いた。その根底には孤独に対しての恐れと、先に待つのが等しく死であるならば、かつての同胞たちのように戦場で誉れ高く散りたいという願いがある。
信頼を得て、尚且つ戦場に立ち続けるためには、千手一族の中枢を担っている扉間に認められることが必然事項である。名前は彼に存在の許しを請うためにその姿を遠くから眺め、何を求め、何を考えているのか──異郷の土地で、だた一人の男の背を見つめ続けた。
それは保身のために始まり、認められるために重ねた行動であったが、後に形容し難い感情を生み出し、却って己を苦しめることになるとは、当時の名前は想定すらしていなかっただろう。
いま彼女が抱くのは、敬意と呼ぶには淡さが滲み、思慕と呼ぶには些か未熟なものだった。
扉間に認めてもらいたいと、確かに思っていた。それがいつしか彼の役に立ちたいと考えが変わるまでに、さほど時間は要さなかった。
──けれど、傍にありたいとまで、欲張った覚えはない。
「覚悟は決まったか?」
千手の屋敷にある扉間の居室は、私的な空気が排され、もはや公的な執務室と化している。棚には書物と忍具が所狭しと並び、机上には書類と巻物が山のように積まれている。書類は恐らく内政に関わるもので、それらを私室に持ち込んでいるということはつまり、扉間がこの膨大な量を一人で管理していることは明白だった。
名前に向く彼の表情は普段と変わらぬ静けさであったが、ほんの僅か、含むような気配がある。名前はそれを目ざとく感じ取ると、少しだけ肩を強張らせた。
「(本当に……、私が側近になることを、期待されている……のか)」
その解釈に至った瞬間、ただでさえ落ち着かぬ心臓の鼓動がさらに熱さを増した。名前は少しだけ唇をきつく喰んで、衝動を堪えるように拳を強く握りしめる。
──胸を焦がすようなこの気持ちは、あまりにも分不相応。一日も早く──否、一秒でも早く消し去らねばならない。重大さは理解している。理解はしているが──病と同じで、気付いた時には根深く侵蝕していてどうしようもない。
応急措置とばかりに、名前は体を巡る熱を落ち着かせるために小さく息を吸って吐いた。
「(もう、居場所を……失いたくない)」
本来の目的を見失うなと何度も言い聞かせ、芽吹いて久しい青い感情を隅に追いやる。そして平生を繕うと 、改めて扉間へと向き直った。
──彼の傍に控えることで、この焦燥を消すことができるのならば。脳裏に過ぎるは亡骸の山、行く宛てもなく彷徨った暗い夜道。手に張り付いた赤と黒。──彼女に長く根差した不安は深く重い。
「この身は千手に下ってより、柱間様、そして扉間様の御心のままにございます」
名前と扉間──互いに求めるものは僅かに違えど、辿る道は同じくしている。
扉間は相も変わらず模範的な彼女の返答に小さく笑むと、まるで名前の決断を知っていたとばかりにひとつ頷いた。
「頼りにしている」
短く簡潔、しかし重圧と強い信頼の滲むその言葉。
またしても扉間の声は、いとも簡単に名前の心を乱すのだから厄介だった。
変わらぬ表情の下で再び動揺の色を滲ませる名前。しかしそんな彼女の胸の内を知る由もない扉間は、机上の書類から数枚を引き抜いて、それを差し出した。
「では、側近としての初仕事を命ずる。この書類だが、昨年の戦にまつわる情報が記載されている」
「戦の……情報にございますか」
「貴様の筆仕事がどの程度か、一度把握したい。簡潔でいい。己の解釈を交えながらこれをまとめてみろ。期限は日没まで。できるな?」
「はっ。無論でございます」
名前は書類の束を受け取ると、大切に小脇に抱える。それから規律正しく一礼すると、初仕事に取り掛かるべく扉間の部屋を後にした。
扉間の側近という肩書きを背負った今、腹を括ったその足取りは迷いない。これまで何事も、それなりに上手くこなしてきたのだ。役割や立場が変わったとて、応じて対処すれば良い。
名前は一度自宅に戻ると簡素な机に向かって文具を並べた。それから墨を纏わせた筆を強く握ると、気合いを入れて文字を連ねる。
墨の走りは淀みない。資料を読み解き、まとめ、所感を重ねる。こんな作業、戦場での戦況の見極めや戦術の展開と、形式が違うだけで何ら変わりない。
数刻後、名前は日が沈むよりも早く扉間の私室へ戻った。それから、僅かに墨の付いた指で数枚の紙を差し出す。扉間は執務の手を止めてそれを受け取ると、変わらぬ表情で紙面を一蹴した。
──しかし、それはすぐ訝しげなものに変わる。彼は名前と紙を交互に見比べてから、口を開いた。
「なんだこの字は。暗号か?」
「……?」
扉間は呆然とこちらを見つめる名前を見ると、ため息をついて額を抑える。それから次に彼女の指先の汚れ具合を確認して、彼はその日初めて名前に対し、気の抜けたような苦笑をみせるのだった。
「そうか、貴様は。筆を持つよりも早く……だったか」
「畏れながら申し上げます、扉間様。字が暗号、とは」
「率直に言おう、字が汚い。……それと、ひらがなの割合が多く、唯一の漢字にも誤りがある。貴様の普段の口調からして、文法や構成は問題なさそうだが……貴様のいた一族は識字率が低かったのか?」
すらすらと並べられる指摘に、名前の体が石のように硬直する。今まで何事もそつなくこなしてきた、そのはずだった名前の自負が、この瞬間、乾いた岩肌のように少しずつ崩れていくのを感じる。
──字が汚い。そんなこと、気にしたことも無かった。何故なら文字の美醜など、戦果に繋がりやしないのだから。
「貴様にはいずれ外部との交渉も任せたい心積りでいる。文章は読めるだけではなく、形も整っていなくては話にならん。他の業務と並行して、筆の練習をしておけ」
「……」
「……おい」
「! は、はい。申し訳、ございません」
「……そう落ち込むな。筆運びについては、オレが直々に見てやる。だから安心しろ」
「はい、恐れ入ります……」
名前は呆然と、心ここに在らずといった態度で言葉を受ける。彼女はその日、初めて物事に対しての躓きを覚えたのだった。
扉間の側近になることで、目的に近付いたと思った矢先、すんの所で取り上げられてしまうようなもどかしさ。
名前は存外と、幼かったのだ。