ハッピーエンドであるようにと願う。



ゆるゆると水底から水面へと浮上していくような、暗い暗い闇の中から光のある方へと緩やかに押されるような。

そんな、錯覚。


ふ、とアッシュは目を覚ました。
しかし未だ少しぼんやりとする頭はとても重い上にまるで頭の中で鐘が鳴っているかのようにガンガンと痛んだうえ、身体はまるで鉛のよう。
明らかに体調が悪いことに舌打ちを漏らしながら、続いて自分がベッドに寝かされていることに気付く。
それはファブレ公爵邸に住んでいた頃より遥かに、それどころか下手するとダアトで軍属として働いていた頃よりも簡素なベッドだった。
ごわごわとした感覚は不快でしかなく、ノリの聞いていないシーツは臭くはないものの快適でもない。
それでも身体が重くて動けない以上抜け出すこともできず、発熱しているせでぼんやりとする視界をなんとか動かしながら、続けて自分が寝かされている室内を見渡す。

木製の天井は古く、非常に歴史を感じさせる。
近場に置いてあった家具の類は一様に背が低く、室内を彩るレースや花の類が何もないことに男の部屋だろうかと察しをつける。
そこでふと人の気配を感じてそちらへと視線をやれば、小さな木桶を持った女性がゆったりとした速度でアッシュの居るほうへと歩み寄ってくる最中だった。

「だれ、だ……」

絞り出した声は無様なまでにからからに乾いていて、ともすれば老人かと勘違いされそうなほどにしわがれたか細いもの。
しかし女性は気にすることなく、あら、と声を上げながらアッシュの居る方へと歩み寄ってくると、淵に手ぬぐいのかけられた木桶をベッドサイドテーブルに置いて、近くにあった古い丸椅子へと腰掛けた。

「気がつかれましたか?声が随分としゃがれているようですが、喉の調子が宜しくないのですか?」

「……あぁ。アンタ、目が」

「ふふ。お気になさらず。家の中だけならばそれほど不自由は致しておりません」

夜のような漆黒の髪を一つにまとめ簡素な衣装に身を包んだ彼女は、目を閉じたまま全ての行動を行っていた。
それだけで彼女が目が不自由なことが解ったが、それを気にするそぶりを見せることなく彼女は手ぬぐいを水に浸し、濡れたそれを絞ってからアッシュの方へと寄越してくる。
少しだけ位置を調整する様子はあったが、手ぬぐいは間違いなくアッシュの額へと置かれた。

「悪いな。どうやら迷惑をかけたようだ」

「構いません。困ったときはお互い様です。どうぞお気になさらず」

「そうか。俺はアッシュ。今は流浪の剣士だ。アンタは?」

「私はユキエといいます。旅をしていらっしゃるなら疲労も溜まっているでしょう。
どうぞ快復するまでゆっくりと過ごしてください」

「重ね重ねすまんな」

「そう言う時はありがとう、というものですよ」

ふふ、と笑みを零しながらユキエは言う。
礼を口にするなどここ何年もしていないアッシュが素直に口に出せる筈もなく、ふいとそっぽを向く事でユキエの言葉から逃げ出した。
ユキエはそれで不快げな思いをすることなく、というよりは見えていないのだろう、おなかは空いていませんかなどと呑気な声をあげている。
確かに空腹を覚えていたアッシュは、お粥ならすぐにできるというユキエの言葉に甘えることにした。

椅子から立ち上がり、キッチンがあるのであろう方向へと歩んでいくユキエの背中を見送りながら、アッシュは再度室内を見渡す。
部屋に飾り気がないのも、家具が全て身長が低いのも、自分の赤い髪と緑の瞳に頓着しないのも、全て目が見えぬせいだろう。
それを理解したアッシュはそれならば自分が通報されることもあるまいと心の片隅で安堵の息を漏らす。

先ほどは流浪の身と言ったが、正確に言うのであればアッシュは追われる身だった。
死を体験し、己の半身とも言うべきレプリカと心を通わせたこの数年を、アッシュは生涯忘れることはないだろう。
世界の敵とも言うべきかつての師が討たれた後、ローレライより恩恵を賜り今一度オールドラントの大地を踏みしめたアッシュ。
片割れであるルークはかつての故郷に戻ることを選んだが、アッシュが選んだのは故郷からの逃亡だった。

超振動を発動できる兵器としか見なかった伯父王。
預言のために息子を差し出した父と、己を嘆くことを好む母。
そして都合の良い反応だけを求める王家の血を引かぬ婚約者。
ローレライの御許、全てを知ったアッシュはもう一度あの場所に戻りたいとは思えなかった。

最初こそ、アッシュはルークにも手を伸ばした。一緒に逃げようと。どうせ利用されるだけだと。
しかしルークはその手をじっと見つめた後、力なく首をふるだけだった。
がんじがらめにされたルークは、最早逃げ出す気力すら残っていなかったのだ。

ルークは静かに問うた。返さなくていいのかと。
アッシュは無言で頷いた。お前こそ、放り出してしまえば楽だろうにと。
ルークは諦めた様子で首を振った。どうせ逃げられやしないと。
アッシュは歯噛みしながら呻いた。逃げ出す自分を許してくれと。
そうして、アッシュは逃げたのだ。肉親から。キムラスカという大国から。

ルークはアッシュの行方に関して無言を貫いたが、それでも追っ手は差し向けられた。
当然だ。血の如く赤い髪と、純粋な翡翠の瞳はオールドラントに二つとないランバルディア王家の貴色である。
その二つを持ちながらも健常な肉体の持ち主であり、世界を救った英雄であり単身で超振動を起こせる兵器でもあるアッシュ。
利用しようと思えばいくらでも利用できるその身体を、キムラスカがそう簡単に諦めるはずもない。
貪欲な大国は、レプリカであるルークだけで満足しようなどと殊勝な考えは持ってはいないのだ。
勿論、当然のようにそこにアッシュ本人の意思など一欠けらも介在していない。

そうして逃亡生活を続けていたアッシュだったが、どれだけ優れた戦士であろうと限界は存在する。
カイツール近くの山間部にて、ついにアッシュは倒れた。
そこを掬い上げたのが、ユキエだ。

夜のような黒い髪を背中に流し、盲目ながらもそれを感じさせぬほどするすると動く彼女。
話し方からしてただの農民や町民ではないであろうということはアッシュにも解った。
それどころか瞳を閉じながらもうっすらと笑みを浮かべた顔はどこかで見たことがある気がする。
そこまで考えて、彼女に会ったことなどないというのに一体何を思っているのかとアッシュはゆるく首をふった。

幸いユキエは快復を待つと良いと言っている。
迷惑はかけたくないが出来うる限り快復できるまで世話になったほうが良いかもしれない。
彼女が粥を運んでくるのを待ちながら、アッシュはぼんやりとそんな事を考え、暫く世話になることを決めた。

そうしてアッシュがユキエの世話になり始めて数日後、何とか普通に喋れる程度に喉もよくなり身を起こすことも出来るようになった頃。
上半身を起こしたアッシュはいつものように食事を食べた後、ユキエから世界情勢についてというよりはキムラスカの情報を貰っていた。

「そうか……ついに王になるか」

「はい。ファブレ公爵邸のルーク様は奥方様を貰われてから随分と人が変わったとバチカルでも有名だそうです。
しかしその政策は非常に民衆想いで、民からの支持は絶大なものだとか」

「確かガーネット家と合同で雇用政策を行ったんだったか」

「そうです。ガーネット家は爵位こそ伯爵ですが被服関連に強く、そこから生み出された財産と人脈は公爵にも引けをとりませんから。
それに預言のせいで過去酷い目にあったと一般市民から教団へと鬱憤が溜まって居た所に、罪人の引渡しと教団の規模縮小要請を行いました……時勢をよく読んでいらっしゃいます。
民の不満を抑え、貴族達にご自身の腕を見せつけ且つ手柄とし、同時に罪人達は見せしめの意味も含まれているのでしょうね」

「うまく、やっているようだな」

「そうですね。レプリカとして生まれ10年も経っていないにも関わらずこれだけの動きができるのはやはり奥方様の貢献があるおかげでしょう。
幸いなのは奥方様はルーク様を傀儡にしているわけではなく、それこそ骨の髄までほれ込んでいらっしゃることでしょうか」

「一体どこからそんな情報を拾ってくるんだ?」

「ふふ、どこからだと思います?」

情報源を探ろうにもさらりと交わされてしまい、アッシュは眉間に皺をよせた。
まるでそれが見えているかのように、ユキエはくすくすと笑みを零す。
しかしその笑みもすぐに消え、ユキエの顔はアッシュと同じように険しいものへと変わった。
その表情にあまりよくない知らせもあるようだとアッシュは悟る。

「よくない話もあります。ついに殿下の処刑が決まりました」

「ナタリアの……しかしアイツは民衆から慕われていたろう?」

「ルーク様が親善大使としてアクゼリュスへと向かわれた時、殿下は自らの仕事を放り出しその一行に同行しています。おそば付きのメイドや兵士達が解雇されると解っていながら、です。
その他にもあの旅の間にしでかした様々なことが民衆の間に出回っていて、かつての人気は見る影もありません」

「成る程な。ガイやジェイドのように搦め手にとられたか」

「奥方様の策でしょう。ルーク様ならばもっと単純な手を打たれるはずです」

「だろうな」

ふぅ、と知らず知らずのうちにため息が漏れる。
かつてあれほど愛した婚約者が死ぬことが決まったというのに、アッシュはあまり悲しくない自分がいることに吐き気を覚えた。
これほどまでに人は無関心になれるのかと、いっそ感心してしまうほどだ。
金色の髪とくすんだ緑の瞳が脳裏を掠めるが、アッシュ様、と名前を呼ばれた事ですぐにそれも記憶の奥底へと溶けて消えて行った。

「アッシュで良いと言ったろう?」

「しかし殿方を呼び捨てにするなど……」

「流浪の身だ。そんな畏まらなくていい」

「では……お言葉に甘えてアッシュ様にお一つお尋ねしても宜しいでしょうか?」

「なんだ?」

言葉に甘えて、といいつつ様付けは直らないのかと、アッシュは胸中でのみ苦笑した。
少しばかり天然のきらいがあると思っていたが、やはりこれは本気の天然なのかもしれないと思う。
恐る恐るといった風に、大きく開いている袖口で口元を隠しながら、ユキエはそんなアッシュへと疑問を投げかけた。

「アッシュ様は、ルーク様や殿下などのお話になるとまるで親しい者を語るような口調になられます。
もしやアッシュ様はランバルディア王家に連なる方なのですか?」

それはある意味当然の質問だった。
アッシュは顔を強張らせたものの、長く息を吐いて自分を落ち着かせた後、『ちがう』とはっきりと告げる。

「俺は……俺は、かつて少しだけ、英雄達と共に行動をしたことがある。それだけだ。
俺はもう、あの国とは関係ない」

「それはつまり……かつては関係があった、ということですね」

「……そう、だな。すまん。もっと早くに言うべきだった。
その関係でお前に迷惑かけるかもしれないというのに。すまない。何か問題が起きたら俺が脅してこの家を乗っ取っていたのだと言ってくれてかまわない」

「ふふ、それではアッシュ様は強襲犯のようではありませんか」

「似たようなものだ。俺はかつて守るべきものを不当に傷つけ、罪無き被害者に理不尽に当り散らし、癇癪を起こした子供のように罵倒を繰り返していた……自分を加害者だと自覚すらせず、な。
何人を傷つけ、何人を殺したのか解らない。俺は間違いなく、犯罪者だ」

そこまで言ってアッシュは密かに後悔した。
自分自身が犯罪者であり、加害者であり、断罪されるべきだという意識は変わらない。
それでもまだ完全に快復していないにも関わらずこのようなことを告白して、この家から追い出されてしまうのではないか。
そんな状態でキムラスカ軍に見つかってしまえば、今度こそ無理矢理連れ戻されるだろう。
しかし後悔するアッシュとは裏腹に、ユキエは静かに微笑んでいるだけだった。

「後悔していらっしゃるのですね……まるで懺悔なさっているよう」

「そう、だな。後悔してもし足りないからな。だから懺悔ではないのは確かだ。
俺の罪は懺悔した程度では拭いきれん」

「過去の関係でご迷惑をかけると仰っていたのも、それに関わりがあるのですか?」

「ああ。今連れ戻されてしまえば、きっと俺は罪を償う機会すら奪われるだろう」

「そうですか……では、このお話は私とアッシュ様との二人だけの秘密、ということに致しましょう」

まるで秘密を共有した小さな子供のように、ユキエは無邪気に笑う。
アッシュはまさかそんな台詞が帰って来るとは思えなくて、目をぱちくりとさせながらユキエを呆然と見ることしかできなかった。


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