蓮の花は密やかに咲く(W)
パリン、と小瓶が割れる。中身が溢れてフローリングの床に飛び散った。
無味無臭のそれはそれからじんわりと広がってその場にとどまっている。
それを踏みにじってからしばし見下ろしていたが、ルビアが戻ってくる前に片付けようと顔を上げかけたところで気配を感じた。
「良かったの?」
いつの間にか風呂上がりのルビアが珍しく穏やかな顔でこっちを見ていた。
柔らかく細めた目が僕を見ている。その目から視線をはがすことが出来ない。
見られていた。そう気づいて心臓が跳ねる。
普段のふざけた態度は鳴りを潜め、動けなくなった僕に静かに歩み寄ってくる。
そして割れた小瓶の前にしゃがみこみ、雫を指先で掬い取って口元へと──。
「やめろ!!」
気付けばその腕を掴んでいた。
指先についているものが何なのか解って口元に運んだのであろう彼女は、静かに僕を見る。
「ヴァンちゃんに私を殺すように言われたんでしょ?」
「な、んで……」
「ヴァンちゃんが何か企んでることくらい察してるからねえ。それなのに勧誘の声をかけられない以上、私はただの邪魔者でしかないにゃー」
暢気な声とは裏腹に、その言葉は冷静に現状を分析していた。
舌打ちを零し、腕を引っ張って水道で洗い流す。ごしごしと擦れば痛いよーなんてふざけた声音で言われた。
「解ってるんなら自分から死のうとするなよ! 這いつくばっても生き延びろって僕に教えたのはアンタじゃないか!」
「いやぁ、シンクちゃんになら殺されてもいいかなーって」
「良くない!! ぜんぜんっ、全然良くない……っ!!」
意味もなく涙が零れる。ぽろぽろと頬を滑り落ちる涙をそのままに、とっくに綺麗になっているであろう指先をひたすらに洗う。
ルビアはしばしの無言の後、ごめんねと小さく零した。手が引かれ、濡れたままの手が僕の後頭部に添えられる。
そっと抱き寄せられた身体は既に冷えていて、風呂から上がったのなんてとっくの昔で、僕が葛藤していた姿も全部全部見られていたんだと解ってしまう。
僕と違って柔らかなその身体で抱きしめられ、あやすように優しく背中を叩かれた。
「ごめんねぇ」
「ゆるさない」
「ごめんって。私を殺せばシンクちゃんも安泰かなあって思ったんだよー」
「そんなの、ぜんぜん、嬉しくない……っ」
「そっかそっか。読み間違えちゃったかあ。私師匠失格だねえ」
「そうだよ! 馬鹿! ほんっとに、馬鹿!!」
「シンクちゃん、お師匠さんに馬鹿馬鹿言いすぎじゃない??」
いつものふざけた声音に戻ったルビアは、それでも僕を抱きしめたまま離さなかった。
生きている。死んでいない。そのことを再実感して、僕もまた震える手でルビアを抱きしめ返す。
あんなに馬鹿力のくせに僕よりも細くて柔らかな身体だと今更ながらに気付いて、この温もりを失おうとしていた事実にまた涙があふれた。
「いやだ……あんたを、殺したくない。死ぬな」
「うーん、困ったにゃぁ。ここでシンクちゃんに殺されないとなると、多分私ヴァンちゃんに処分される可能性が濃厚なんだよねえ」
「だったら!」
「それにこのままだとシンクちゃんも処分対象になりかねない。一応第五師団にシンクちゃんの存在は認知させたし、このまま戻れば師団長に就けるようには根回ししてきたけど、ヴァンちゃんの推薦がないとやっぱり厳しいからさぁ」
その言葉にまたびくんと肩が跳ねた。
つまりルビアはここに来る前から死ぬ覚悟をしていたのだ。
何もかも察した上で、僕に殺されるためにここに来たのだ。
「……っ、ダアトを、出ればいい」
僕が絞り出すように言えば、僕の背中を叩いていた手がぴたりと止まった。
ゆっくりと身体が離され、笑みをなくしたルビアの目が僕を射抜く。
「預言が憎いんじゃあないの?」
「! なんで……知って」
「解るよ。私はシンクちゃんのお師匠さんだからね。ヴァンちゃんから、ローレライ教団から逃げるってことは、何かしらの……復讐の機会を不意にする。シンクちゃんにとってそういうことじゃあないの?」
改めて現実を突きつけられ、喉が震えた。胸の内から湧き出す憎悪に瞳が揺れる。
何もしていないのに呼吸が浅くなる。生唾を飲み込む僕を、ルビアの視線は逃がさない。
「……それでも、僕は」
「うん」
「アンタに、死んでほしくない……」
くしゃりと顔を歪めて零れ落ちたのは僕の本音だ。
ルビアは優しく目を細めて、震える僕の頭を撫でた。
「そっかぁ。なら、一緒に逃げようか」
あっさりと言われた言葉に肩の力が抜けた。
頭を撫でる手を振り払うのも忘れて、僕はルビアを見返してしまう。
「ぇ、あ……い、いの?」
「元々神託の盾騎士団に居たのも、後継を探すためだったからね。シンクちゃんに出会えたから固執する必要はないかにゃー」
「師団長、なのに」
「師団長の地位に執着はないし、ここに来る前に引継ぎが出来るようにしてきたから、あっちは何とかなるっしょ!」
んはは、と笑いながらルビアはわしゃわしゃと僕の頭を撫でた。
そこから割れた小瓶の片づけを始めたので、慌てて僕もそれを手伝う。
余りにもあっさりと言われた言葉に未だに理解が追い付かないが、どうやらルビアは僕と一緒に逃げてくれるらしい。
栄誉ある第五師団師団長の地位も、神速の名前も全部捨てて、僕を取ってくれるらしい。
じわじわとその実感が湧き上がってきて、なんだか頬が熱くなってくる。
「シンクちゃん顔が赤いにゃー」
「うるさいなぁ! 何であんたはそう一言多いのさ!」
「んははは! 私の弟子超カワイイ!!」
「うるさいって言ってるだろ!!」
毒に触れないよう気を付けながら全て処分をして、二人で並んで食事を作った。
食後に渡されたのは秘奥義習得祝いに渡そうと思っていたという仮面。鳥のくちばしみたいな奇抜なデザインはルビアが考えた特注品らしい。
必要でしょ、と渡されたそれに口をもごもごさせる。
思えば、ルビアは僕が導師と同じ顔をしていようと何も言わなかった。僕がレプリカだと伝えられていた筈だが、そのことに対して言及してくることは一度もなかった。
最初から僕を、僕だけをきちんと見てくれていた。当たり前のように甘受してきたそのことがどれだけ特別だったのか今更ながら身に沁みる。
試しに着けてみれば思っていた以上に視界を遮ることはなかった。どうやら譜陣が刻まれているらしい。
ダアトを出るのにこんな目立つものを付けても良いのかと思ったが、ルビア曰くだから良いのだそうだ。
あえて特徴的なものを身に着けることで、人の意識をそこに集中させるのが目的とのことだった。
追手は必ず来る。ヴァンは絶対に僕達を殺そうとする。
ダアトを出る以上僕は絶対に顔を隠さなくちゃならない。向こうもそれが解ってるから、顔を隠した少年と若い女の二人組として探しに来るはずだと。
仮面をつけて逃げれば、情報収集の際に必ずそれが追手の耳に入る。仮面をつけ続ければ追手もそれを特徴として伝えながら行く先々で情報を集めるようになる。
だからここぞという時に仮面を外して逃げれば、相手はこちらの動きを追えなくなるはずだと。
「今までは戦い方とか軍のことを中心に教えてきたけど、これからはもっと別のことも教えてあげなきゃね」
「別のことって……例えば?」
「軍は犯罪者を追うこともある。追い方を知っているなら、それに当てはまらないようにするにはどうしたらいいか、とかね。人付き合いの仕方。人ごみの紛れ方。目立たない立ち回り、味方の作り方……覚えることはまだまだいっぱいだよー」
「わかった」
「ひとまずケセドニアまで逃げて……そこからはマルクトにでも行こうか。キムラスカは国王の方針で預言にずっぷりだし、居心地悪いでしょ」
「……ん」
預言という言葉に胸がざわついたけど、ルビアの言葉はどこまでも優しい。
にこにこと笑うルビアを見るのがなんとなく癪で、そっと視線を落とす。
テーブルの上で握り締めていた両手は、もう震えていなかった。
前へ | 次へ
ALICE+