八話




天気が良くて、洗濯物がパリッと綺麗に乾いた。
朝ごはんの味付けが、うんと美味しくできた。
返ってきた模試の成績が、これまでで一番良かった。

そんな、ちょっとしたいい事が続いて、ふと空いた時間。
教室の四角い窓から青空を見上げ、なんの気もなしに「成績上がったの、お母さん喜んでくれるかな」なんて思ったところで我に返り、途端に気分がぺしゃんこに潰れた。

墓前に見せに行こうにも、両親にはお墓がない。お金が用意できなかったからだ。
そもそもお墓のことも、終ぞ出れなかったお葬式のことも、私は何をすればいいのかまるで分からなかった。知らなかった。元々死ぬつもりで、一人遺されること自体が想定外で。後で遺体を処理することになる人のことや、それにかかる手間暇、諸々の資金についてなんて、一顧だにしなかった。今になって考えれば無責任だったけれど。そんな風に思考をめぐらす余裕もなかったんだ。
当時はなんとか法律上問題のない散骨の仕方を教えてもらって、周囲に促されるまま両親を海へ還した。
母なる海へ、なんて耳障りのいい言葉。その綺麗さで誤魔化したくはなかった。本当に、そう望んでのことであればどれほど良かったか。そう希望することに偏見はない。でも、両親の希望を聞くことも出来ず、消去法でそうしてしまったことが心残りで。両親にも、その選択肢を心から希望した人たちにも、後ろめたかった。
そんな、もうどうにもならないことでうじうじ悩む日々。こんなときこそ無性に両親の声が聴きたいのに、何にも残されていないことが辛かった。
二人ならきっと褒めてくれただろう。えらいって、頑張ったって、私の努力を認めてくれた。私なら大学受験も安心だねって、眉尻を下げるお父さんの姿が目に浮かぶ。そんなお父さんに対して「もう、お気楽なんだから」って窘めつつも、頬を緩めるお母さんのことも。そのあとは「その調子で頑張るのよ」って、ちょっと豪勢な夜ご飯を三人で食べて。当たり前だったあの幸福はきらきら輝いていて色褪せず、今いる暗闇から手を伸ばしても、もう二度と届かない。

「今日、具合わりぃなら帰るか?」
「え、」

でも、だからといって彼にそんなやるせない気持ちを察されたいとは思わなかった。隠していたつもりだった。こんなでも、取り繕うのは格段に上手くなったから。クラスで一人でいても、時々ある追及を適当にやりすごして、いじめにあわない程度には『普通』っぽく過ごせるようになったから。

「なんで、そう思ったんですか」
「そりゃ…………口数とか、顔色とか、か?」
「なんで疑問形なんですか………」

数舜口籠ったのは、たぶん『ヒーローだから』とでも言いかけたんだろうな。それか、『職業柄』、とかかな。でも、私が余計に気を塞がないように、言い直した。人の顔色を見るようになったから分かる。この人がどれほど私に気を遣ってくれているか。
その優しさが、今はとても辛い。余計に自分がみじめでちっぽけな存在に思えてくる。今日は特に、思考がずっと悪い方に傾いてしまうから、提案に甘えて早く施設に戻った方がいいだろう。仕事が終わってすぐ来てくれた彼には申し訳ないけど、後日埋め合わせをしよう。そう思った、そのときだった。
明るくはきはきした声が、耳に飛び込んできたのは。

「あれ、轟くん? と、その子は……」
「……緑谷」

例えばこんなとき。きっといつもなら、ばったり遭遇出来たら喜ぶんだろう。今私がいるせいで、困り顔の彼は。
緑谷さんって、口数が少ない中でも時々ぽろっと零してるから、すごく仲が良いはずなのに。ヒーローがどれだけ忙しいのか、もう私は知っているのに。滅多にない再会を、台無しにした。
ねぇ、お父さん、お母さん。それでも私、素直に謝れないの。笑って、今日はここで大丈夫ですって、早くこの場から逃げ出したいのに、足が張り付いたみたいに動かないの。むしろヒーローが増えたことが怖い。怖くて仕方ない。また何か悪いことが起こるんじゃないかって、酷いことされるんじゃないかって、そう思って。
ショートの知り合いだから、いい人に違いないのに。今も様子の可笑しい私を心配そうに、ほら、手を伸ばして、

「デク、駄目だ!」
「触らないでッ!!!!!」

金切り声が、夜の闇を切り裂く。私こんな声出たんだ。人がいなくて良かった。また迷惑かけちゃった。
ああ、こんな私が、生きてる意味ってあるのかなぁ。
ほんとうに、

「ごめんなさい…………」

ぐらりと揺れ崩れ、狭まる視界のなか。
慌てたようにこちらに手を伸ばす彼の澄んだ青空色が、妙に目に残った。



-8-
*前次#