七話




「なんですかこの大惨事は」

ぱかり。開けてびっくり、パンドラの匣の中身はまさかの空だった。神話の世界で恐れ慄いたあの人の名前は、誰だったか。
ぴかぴかの…何故か新品同様のシンクの下の、収納スペース。許可を取って開いてみたは良いものの、どうやらこの家には何も無いらしい。
うっかり思考を明後日の方向へやっていると、ひょいとめでたい紅白頭が視界に映り込んできた。

「…ああ、そういえば作るにも色々と器具がいるんだったな」
「足りないどころじゃないですよこれ…ああでもカトラリーなんかは流石にあるようで……いや、菜箸も無いってどういうことですか!?」
「…」

絶句した。
一体これまでどんな生活をしていたんだ。じとりと見上げれば、ついと逸らされた視線。これはどこを探しても無いものだと判断した。中高の時に合宿とか家庭科とかあったろうに、それらの知識はまるっと忘れてしまったのだろうか。
呆れやら驚きやら、色んな心情が入り乱れてごちゃごちゃと煩い。とっちらかっている。

「ええ…蕎麦とかどうやって湯掻いて…?」
「普通の箸じゃ駄目なのか?」
「…」

駄目だ、この人。私は悟った。お節介焼きな誰かが丁寧に教えることをしなければ、現状は改善しないということを。
彼がぽろぽろと口に出す緑谷さんに、届かないであろう念を飛ばしておく。この残念なイケメン、早くなんとかしてください。私の手には負えません。

「…………とりあえず…百均、行きましょうか」
「…おお」

言いたいことを飲み込んで、引きつった笑みを浮かべた私。それを見て若干引き気味に顎を引くショートさん。なんだ、文句でもあるのか。一応花の女子高生のくくりに入る人間の笑顔だぞ。
…我ながら、可愛げの欠けらも無いけれど。敗因は化粧っ気のひとつもない自分自身だった。昨今は小学生でもばっちりメイクをするというのに、残念すぎる。

「ざる…は大丈夫。氷は……製氷機は一応、あるんですね」
「使ってねぇな…」
「…出かける前に作っておきましょう。あと材料は……ええ、聞いた私が馬鹿でした」

これはもう、一式揃えるしかないだろう。初っ端から躓いてしまった。びっくりだ。
はぁと溜息をひとつ吐いて、ぱたんと扉を閉じた。

外へ出れば、聳え立つビル、ビル、ビル。背比べでもしているかのような、皆素晴らしい伸びである。要は背が高い。見上げる首が痛い。
振り向けば、こちらに向かって腰を折るコンシェルジュ。ナイスミドルなその人は、彼が私みたいなちんちくりんを連れてきたことに目を見張り、しかしすぐににっこりと微笑んでくれた良い人である。きっと内心では色々と思うところもあるのだろう。この目立つ頭の人の職業を知らないとは思えないから。
そんな素敵なお家に住んでいるというのに、この人の生活感のなさは一体どうしたものか。
いや、食に関してでなければ、多少の生活感はあるのだ。ゴミ屋敷で無かったことにはほっとした。
外装からは想像もつかない和式になっていたことには驚いたが、趣味は良いのだと思う。家具やら部屋の内装やらに疎い私でも、座椅子に座るとどことなく落ち着いて、肩から力が抜けた気がしたから。

だからこそ、綺麗すぎるーーーまるでモデルルームのようなキッチンを見た時は目眩がしたし、脇にあるエナジードリンクの空き缶の山とカップ麺のラインナップの豊富さが目に留まった記憶には、早々に蓋をしたのだった。

「蕎麦を作るのにしか使わないそば粉とかは、私が施設から持ってきたので良いんですけど…」

肝心なのは蕎麦以外の材料だ。薬味になりそうなネギやら茗荷やらも見当たらなかったし、折角なら大根もすり下ろして入れたい。一人暮らしで使えないくらい余ったら、施設に持って帰らせてもらおう。
天ぷらは片付けも面倒だから、和え物なんかで野菜をとればいいだろうか。タンパク質はどうしよう。鴨なんかが合うと聞くけれど、チャレンジする勇気はない。畑の肉である大豆で我慢してもらおう。

適当なレシピを頭で描いて、予算と相場で折り合いをつけて。ついでにデザートのメニューまで考えてしまえば、あとは何も考えずに作るだけだった。

「…魔法みてぇだな」

だから、そんなふうに。
心底感心したとでもいうふうに、褒められる理由はないのだけれど。
…慣れないそば打ちを施設で練習して良かったなぁと思えるほど擽ったい気持ちになったのは、どうしようもない事実だった。

……数日夜ご飯をそばにしてしまったから、1ヶ月は皆の好物や食べたいもののリクエストを聞こう。
そんなことを考えつつ、私は疲労を訴える筋肉に気付かないふりをして、ひたすら蕎麦を打つのだった。




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