欠けたルビー閃いて夜 前
おまえのことが何もわからなくなる日がある。
「わたしは遠征艇には乗りません」
はっきりと言い切ったあいつは何を見ていたのだろう。初めて会ったときからみょうじなまえという人間がわからない。その感覚に反して、まるで自分のことかと錯覚することもある。同じだと思った瞬間に知らない人間の顔になる。いつだって、おまえはそういうやつだった。期待をしたつもりはない。盲目なつもりもない。だが。
そうか、という声は想像より温度もなく乾いた声だった。
遠征艇は最小限の照明で成り立っている。非常灯の緑のランプと、保安灯によく似た小さなオレンジ色の灯りだけがひとつ取り残されている。みょうじは今、何をしているのだろう。
一周して後輩の話題に帰ってきて、腹の中で笑った。俺はあいつのなんだっていうのか。
初めて会ったあの日からこの街が一変するまでの間、みょうじなまえこそが俺にとっての何かであった。心臓が軋んで、指先が熱くなるような、そういう存在だった。事実だ。今更変えることなどできない。誰にも言ったことはないが、この感情を分類するならきっと恋だったんだろう。似合わないことは重々承知だった。
それでも恋というやつは、始まることなく終わることもある。俺とみょうじなまえのように。俺はそうやって受け止めていた。
これはもう恋ではない、愛でもない。違うものだ。だからどうするべきでもない、関わるべきでも慈しむべきでもない。みょうじだろうと関係ない、それに、人混みの中でみょうじを見つけることはできないだろう。もう二度と。冗談だ、まず前提が幻想にすぎない。雑踏からたったひとりを見つけることなどそう簡単にあってたまるものか。
理性は正しく情報を精査してくれているのに、記憶がいう、あれは他でもないみょうじなのだと。馬鹿馬鹿しい、らしくもない、そんな形容までして、みょうじを思う俺を肯定しようとしていた。
「風間さんが本読んでるなんて珍しいな」
俺の堂々巡りになった思考を止めたのは太刀川だった。本部でも聞き慣れた音。ドアの開く音。眠たそうな太刀川の口調。
俺はいままでずっと本に集中していた、というように本から顔を上げてみる。取り繕わなければいけない。太刀川に醜態を晒したいと思わない。
「普段からおまえよりは読むとは思うぞ」
「いやあ、そりゃそーなんだけどさ。なんてんの?そういう、俗っぽい、あー、そう。みょうじが好きそうなやつ」
「……半分正解だ」
まだ半分しか読めていないページだったが、人差し指を挟んで、正面に立っている太刀川に視線をやった。視線を上げた俺にはなんの感情もなく、太刀川が俺の手元の本を覗き込む。本のタイトルを読み上げる。
「おー、これみょうじんトコ行った時流れてた映画とおんなじじゃね?多分、これ、意味わかんなかったやつ」
「……逆に聞くがおまえにわかる映画はなんだったんだ?」
「え、なんだろ。普通に覚えてねえ」
そんなことだろうとは思った。
口には出さず、俺もまた手元ある表紙を眺める。映画と原作が同じかはわからない。だがそれのチケットだけは俺にも思い当たるところはある。無論、太刀川にいうつもりはこれっぽっちもない。誰にもいう気がない、とも言える。
「ずっと気になってんだけど、一個聞いていいか?」
「好きにしろ」
引っ掛けていた指を倒して、ページを開いた。
「風間さんとみょうじってさあ、なんか、こう、時々びっくりするぐらい似てる時あるよなって」
「……だからなんだ」
紙面を眺めながら言葉の先を聞くが、太刀川は当てが外れたように、ええー?と声を上げた。不愉快なノイズには相手をせずに、紐を引っ張って、本を閉じる。
「え、もうやめるの」
「寝る。そういう気分じゃなくなった」
「ま、あと帰還するだけだしなあ〜。そうだ、風間さん的には初めての遠征どーだった?」
太刀川は俺の後をついて藪から棒に質問を投げたきた。おまえこそなんの用事があったんだ。尋ねるより先に気の抜けたあくびを太刀川がこぼす。文字通り暇だったんだろう、こいつのことだ。だからきっと無視したってよかった。俺がコイツに感想を述べる必要はない。けれども答えない理由もないな、と口を開く。足音は会話で塗りつぶされる。遠征艇の床は想像よりも足音が響かない。誰の足音も気配もない。
「想像していたより普通だった」
「だよな、こっちを攻め込んでくるし、もっと戦争やってんのかと思ってた。弾とか飛び交ってたらどうしよっかなとか考えてすげーワクワクしてたのに」
「……普通に考えて、意図的にそういう場所を選んだんだろう。近界に住むのも俺たちと同じ人間だ、ということを理解しろとでも言ってるんじゃないのか。本部、というか林藤さんや忍田さんが考えそうなことだ」
「卑屈な見方するなー、風間さんは」
「お前が緩いだけだ」
太刀川はええ〜と不満げな声をあげる。無視してそのまま太刀川を振り切るように歩幅を大きくした。
温度もなく色もない。そんな錯覚に陥る遠征艇の夜に長居はしたくない。蛍光灯の代わりに壁や床に嵌め込まれたライトが緑色に点滅している。強い緑は瞼の裏まで通りぬけた。捨てたもの、諦めたもの、失くしたきり返ってはこないものがいやでも目につく。普段忘れているにも関わらず、だ。何日見てもこの光には慣れない。
「あ、思い出した」
「……忘れろ、どうせ大したことじゃない」
「さすがの風間さんでもそれは酷くね?」
「どうせ冷蔵庫の中に食べ物を残したままだったとかだろう」
「いやそれは忘れてねえよ。安いのは期限近いから食えってみょうじに言われたし」
呑気な声で「料理とかしねえもん」と続ける。ああいうのは期限が近いから安いんだ、と訂正しようかと思ったが、ややこしくなるから結論から尋ねた。
「で、まだおまえは覚えているのか?」
「何が」
「さっき思い出したこと」
「ああ、それね。風間さんが……任務っていうか、なんつーの?何?」
「俺に聞かれても」
足を止め唸る太刀川を横目でみる。太刀川は顎髭を撫でながら、必死に記憶をまさぐっているらしかった。とはいえ唸っているようにしかみえない。思案している振りだけ上手くなられても困る。あいにくとここにはみょうじはいない。ラウンジで二人顔を突き合わせている様に、俺が口をはさむことはない。資格があればよかったとは言い切れれないが。
「ん〜、遠征みたいな、こういう……気を張ってなきゃいけない?ところで本読むのが意外だった、てやつ。東さんと諏訪さんならわかるんだけどさあ、風間さんじゃん」
「別に大した理由はない」
「だから、そーゆーとこ...... 風間さんこういう時はちゃんとしてるじゃん。それ以外はまあ、割とテキトーかあ」
うだうだ言っている太刀川を放置する。とっとと寝てしまおう。置いていくなとか喚く太刀川をうるさいと一喝してカプセルベットを開けた。無機質な直方体に片足をいれる。
「なあ風間さん」
ぺったぺったと歩寄ってきた太刀川が呑気に話しかけてくる。おまえの子守なんて性に合わない。
「…………太刀川、もう寝ろ」
「帰ったらさ、何食いたい?俺いますげーラーメン食いたい、こりゃとんこつだな」
「………………カツカレー」
「いつものじゃん」
ケラケラ笑う太刀川に枕を一発投げて、寝ろ、ともう一度言った。太刀川がくだらないことをいうせいで、みょうじは何を食べたのか、だとかいう答えのないことが喉にはりつく。意味がない。カプセルの中は静かで暗く、瞼の裏と何ら変わりなかった。
目の前をトラックが通過した。
人が交錯する駅前に立って初めて自分が気を張り詰めていたことを実感する。諏訪あたりにこれをいえば、おまえはいつも気づくのが遅いと評されるのだろう。異論はない。ここまで呆けているとは思っていなかった。明日大学へ向かおうかと思っていたがそれはやめておいたほうがいいかもしれないな。いつものペースで歩きながら明日の予定を組み立てる。午後5時半。帰宅ラッシュに該当するのか駅舎からまとまった人数が出てくる。
不揃いの足音。点滅する街灯。白いラインのはげた横断歩道。切り替えの早い信号機。排気ガス。どこからか飯屋の匂いが漂ってきた。これはラーメンか。
ラーメンの匂いのせいで、昨夜太刀川と交わした記憶がすぎる。豚骨ラーメンか、カツカレーか。いや、やはりここは譲れない。カツカレーだ。スパイスの香りに足が止まった。どこからしているのかはわからないが、思い出してしまったからにはなんとしても食べたい。折角だからここで何か食べていくか。
とはいえ、どこで探すのが一番か考えるのが億劫ではある。ポケットに入れっぱなし、帰宅後充電したスマホで諏訪を呼び出す。適材適所。
人の波をかき分けながら、不揃いの足音とコール音を聞く。意味を持たない音だ。
「みょうじ?」
コール音も雑踏も消えない。
「……あ、風間先輩。お疲れ様です」
隣で足音が一つ止まる。それから、一歩こちらに歩み寄ってきたのは、寒そうにマフラーに顔をうずめた後輩だった。コール音がぶつりと途切れて「おい風間」と諏訪の声がする。
「悪い後でかけなおす」
おいとかなんとかいっていたような気がするが、聞かなかったことにしてみょうじの腕をつかんだ。
「えーと、これから太刀川とご飯いくんですけど来ます?」
「俺はいまカツカレーの口だからそれ以外は食わんぞ」
「随分と狙い撃ちですね。先輩らしいといえばすごくらしいですけど....。太刀川はなんか定食食べたいっていってましたよ、あるんじゃないですか?」
「豚骨ラーメンじゃないのか」
「違いますね」
太刀川のいうことをまともに受けた俺が間違いか。ボヤキを受け取ったみょうじがそりゃ太刀川なんで、と笑う。子供みたいな理由で子供みたいに笑うみょうじに肩の力が抜けた。こ遠征なんて高々数週間程度だ。そんなことで大きく変わるはずない。それでもよかった、と思った。消えてなくなることを恐れてなどいないのに、無性に安心した。
「違うもの食べちゃった可能性もありますよ、太刀川だし」
「そこまで馬鹿なのか?」
「それは今更だと思いますよ。……とかなんとか言ってたら矢先に太刀川から」
震えるスマホを手に持ったみょうじがちらりとこちらを伺う。
「出ていいぞ」
「風間先輩の方は電話いいんですか?」
「どうせ諏訪だ」
「そういうことばっかするから諏訪さんがキレるんですよ」
「意外と満更でもないんじゃないか」
いやそうな顔をして、みょうじが電話に出る。
息を吐く。白い息があたりに漂う。すっかり冬になった。遠征に行く前はここまで寒くなかったような気がするが、ずっとこうだったのかもしれない。
「は?もう食べたってなんで……?え、ああ、出水たちと食べたんだ、そう。忘れてたんでしょどうせ。うん、いいよ明日で」
「ドタキャンか」
「どうしましょうね」
「どうもしないな。じゃあ、太刀川じゃなくて俺と飯を食うか?」
断られるかと思った。理由はわからない。それでも、みょうじの腕を握る指は全く動かない。断絶。そういえば、飯を食べようと誘うのはひどく久しぶりだった。大学に進学して、隊を結成して。その記憶の中にみょうじはいない。
「奢りですか?」
「おまえは太刀川か」
「は?めちゃくちゃ失礼すぎませんかそれ、受験シーズン真っただ中に部隊を結成するやつと同レベルにされるの心外です。あーあ、風間先輩だけはいわないと思ってたのに、あーあ」
「いくのか?」
白い息がまとわりついている。数週間ぶりに見たみょうじは表情を変えず「いきます」と答えた。そうか、という声はすぐそばでなり始めた踏切の警笛に負けたが、そうですよ、と答えたみょうじの声が返ってきた。
メニューにはカツカレーの写真が載っていた。向かい側に座ったみょうじが「ありましたね」と嬉しそうな声を上げた。飯の時間くらいは他人のことより自分のことを考えればいいのに、と思わなくもない。にやにやしたみょうじと目が合う。まあ、特段悪い気もしないから、いいか。いろいろ言ってやろうかと思ったが、諦めて、カツカレーがあるならと条件をつけたのは俺なので頷くだけにした。
「嬉しいか?」
メニューからみょうじが顔を上げる。普段より少し近い高さの視線。テーブルの分距離がある。それでも、ただ隣に立っているよりずっとよく表情が見えた。まだまだ子供だった。
「そう見えるならそうなんじゃないですか」
「おまえは可愛げがないな」
「可愛げ云々言い出すのなら人選が間違っているのでは?」
「それもそうだな。おまえといい太刀川といい神経図が太い奴らばかりだ。二宮や加古あたりもそういうものを捨てているが……どうなっているんだおまえたちの世代は?」
堤はマトモかイカれているのか、というには諏訪に聞いた方が早いだろう。だがまあ、マトモな感性でみょうじや太刀川たちとは付き合っていけるはずがない。
かくいうみょうじは軽く笑って誤魔化す。気に食わなかったので少しつま先を蹴れば、暴れないでくださーいとかいう緩い返答があった。それすら嬉しそうにするものだからヤキモキした。
「当然うれしいですよ、先輩とまた会えて」
「はじめからそう言え」
女性が奥から水を運んでくる。ありがとうございます、と礼を言って注文いいですか?と引き留める。決め打ちするのが随分と早い。
「ナポリタンをひとつ」
「はいはい、ナポリタンね」
店員がペンを走らせる。復唱し、目が合ったので注文を口にする。
「カツカレーをひとつ、大盛で」
大盛り可という赤い文字が非常に魅力的に見えた。赤い背景に黄色の太字。かつてないほど食欲をそそられるものだ。腹も減っているし、適当なところだろう。
「弟さんは大盛ね」
弟。そうか、弟か。
わざわざ訂正はしなかった。でも、何も思わないわけではない。厨房に消えていった背中を見届けてから水で口を湿らす。
「弟か。さしずめお前は姉か。よかったな」
「……どの辺がよかったんですか」
「なんでもいいだろう」
口の中がざらついたまま、店の外を眺めた。夜が深まる街を映すガラス。その中でうっすらと反射する俺とみょうじを見た。上機嫌な後輩と不機嫌な先輩。事実としてはそうだったが、多分誰にも判断つかないだろう。
「いただきます」
「いただきます。……あ、風間先輩、おかえりなさい」
スプーンを持つ手が止まった。
くるくるとスパゲッティをまとめるフォークの動きを見ながら思案する。ここで俺はこいつになんということができるのか。【ただいま】の言葉は適当なのか否か。返事はできず「みょうじ」と名前を呼んで困惑を表明するほかなかった。
「おまえ、タイミングが滅茶苦茶じゃないか?」
「ほんとのことは先輩が知っていればそれでいいので」
「じゃあせめて顔くらい見せておけ。あまりにも久しいと俺も忘れるかもしれん」
あはは、とみょうじが笑う。何ひとつとしておかしくはないのに。薄い膜のような何かが俺とみょうじの会話を遮断しているようだった。気づかないふりをするためだけに笑ってほしいわけではない。
みょうじがフォークをおいて、水を飲む。視線だけは俺のものと重ねる。下手だなと思った。言いたくないことを無理して黙っているぐらいなら、全て言ってみればいいのに。卓上に置かれた俺のグラスの中の氷はまだ解けなかった。
遠征には行かないと断言した時、実のところおまえはどんな気持ちでいたんだろうな。
「次は行くのか?」
「選抜対象ってチーム単位でしょ?だったら無理だと思いますよ」
「おまえのところは今期で解散だったな」
「そうです」
「次のアテはあるのか?」
止まっている俺の手元を不審がりながら、みょうじは律儀に応答する。おまえに言いたいことがたくさんある。たとえ俺の恋が死んでいたとしても。死んでもそのまま腐らせるわけにはいかない。もう既に遅すぎるのかもしれないが。
「久しぶりの好物なんですからちゃんと味わったらどうですか?」
「味わってる、うまいな。カツもカレーも良い」
「よかったです」
会話をしても、目を合わせても、手をひいても何も変わらない。特別な1日に昇華することは不可能ということだけがわかった。
何を言ってもきっと、頑固なあいつが耳を貸すわけがない。だから今日は飯を食うだけでいい。近くにいても話さなければ、関わることをやめればきっと全てが過去になる。俺はまだみょうじなまえの過去にはなってなどやらないと決めている。一番大きいカツを一口で頬張る。サクサクとした衣の食感も、カレーのスパイスも望んでいたものだった。
向かいからご馳走様でした、という挨拶が聞こえて顔をあげる。自分の皿に残った僅かなルーを掬い上げる。完食。
「うまかった」
「おまえ、ナポリタン好きだったか?」
「普通ですかね。あっ、でもここのナポリタンすごく美味しいですよ!昔からここに来たらナポリタンって決めてて……」
「常連だったのか。道理で慣れているわけだ」
「いや、流石に常連と言えるほどではないです」
「そうか」
「一時期よく来ていたってだけだし、ここも移転したばかりで。内装とかはほぼ一緒だけど、昔よりはちょっと小さくなったように思います」
「……違いばかりが目について苦しいか?」
視線が逸れる。照明、テーブル、フローリング、白い壁。一通り見てみょうじはなんでもないように、告げる。それでも、演じるように肩には力が入っているように見えた。
「ナポリタンの味は同じですから」
「そんなものか」
「そんなものじゃないですかね。まあ……全部忘れられたらそれだけで報われるでしょうね」
なあみょうじ。気になること全て聞いてやろうかと思って、咀嚼していたカツを飲み込む。それでもアイツはいつもどおり、俺が言ったとおりにへらへら笑っていて。仕方ないから、今夜は見逃してやることにした。あまりに痛々しいから触れてやるのも忍びない。
グラスの底で、溶けて形を崩した氷は堆積している。かちゃかちゃと鳴る。残りの水を氷をそのまま飲み干して隣にあった伝票を手に取った。
結局のところ、俺はおまえを忘れられるほどおまえのことを知らないんだろう。
「今日は奢りでもいいぞ」
可愛げのない後輩が楽しそうに、ご馳走になりまーすと笑った。普通に笑ったみょうじを見て、少しだけ息を吐く。おまえと俺はこれでいい。
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22.05.15