概略センセーション
「ねえさんって兄さんとどういう関係だったの?」
ずっと気になっていたんだけれど。
そう切り出した私の言葉に目の前のねえさんは、ぱちぱちと数回瞬く。東京の昼下がり。もうすっかり大人になった私と、血は繋がっていない『ねえさん』はカフェのテーブルを挟んで向き合っている。口を湿らすために頻繁に口にしていた、私の前のアイスティーはもう半分まで減っているのに、ねえさんが注文したレモネードに刺さった赤いストローはそのまま。大きな氷はひとまわり小さくなっているのに、ねえさんは口にしようともしない。昔から、あんなにレモネードばっかり飲んでいたのに。おかしいこともあるものだ。
「どうかしたの?気分でも悪い?」
「ごめんね、ちょっと考えてた」
「ねえさんと兄さんの関係について?」
「そう。わたしと灰原の関係について」
肩の力を抜くみたいに軽く息を吐いて、ねえさんは赤いストローでレモネードの中をぐるぐるかき混ぜる。「私も灰原なんだけど」と口を尖らせるとねえさんは私の名前を愛おしそうに呼んで、笑った。私はねえさんのえくぼが可愛くて好きだ。
「わ〜昔とねえさんのえくぼかわんない〜!すごい!」
「もう、どこに喜ぶポイントがあるの?」
「ええ、ねえさんがそれいっちゃう?」
「そんな風に揶揄う子には教えないでおこうかなぁ」
わざとらしくそっぽを向いて、機嫌を損ねた所作をするねえさんを、慌てて止める。ねえさんはわざとらしくやったことを真実にしがちな、なんともクレイジーな人だから。そうじゃなかったら、化け物を見える私と一緒に住もうなんて言わないもの。
「教えて。兄さんは姉さんにとってどんな存在だったの?」
「……どんなふうに死んだかはもういいの?」
「そりゃあ、ねえさんが話すっていうなら私は知りたいけど」
今度は私がストローでグラスの中をかき混ぜる番だった。知りたい。兄さんがどんな気持ちで、どんな傷跡をねえさんや友人や先輩に残したのかを知りたい。でも、それを話すねえさんは見たくない。窓の外に広がる無機質なビルとその間を足早に過ぎていくサラリーマンたちを眺める。規則正しい兵隊のようで、ただの鬱屈を言葉にできない学生のような集団。多分、私はずっとこの集団から出ることはない。でも、ねえさんは、兄さんたちは多分この集団の外で生きているから。
「……きっと、世の中には知らない方が幸せなこともあると思うの」
「ほんと、大人になったね。…叶うなら、あなたは諦めるだけの大人になって欲しくなかったような気がするけど」
「そんなに悪いこと?」
「ううん、すっごく綺麗になったよ」
ねえさんはルージュをひいた唇に赤いストローを当てた。ゆっくりとレモネードを吸い上げて、口の中を湿らすみたいに丁寧に飲み込んだ。そしてわずかな逡巡のあと、ねえさんはこういった。
「わたしと灰原……兄さんはね、友だちだったよ。多分」
「ただの友だちが妹と同居したいなんていうかなぁ」
「わたしたちの関係には名前がなかったの。わたしは彼を愛していたし、彼はわたしを愛してはいたんだけれど」
「……ややこしい。じゃあ、じゃあさ。ねえさんにとっての兄さんはどんな存在だったの?」
私の言葉に眉根を下げて、また、ひとくちねえさんはレモネードを飲んだ。視線がテーブルに落ちて、グラスの周りをぐるっと落ちている水を指先で伸ばす。沈黙。私もまたストローを口に含むけれど、吸い上げたものは溶けたばかりの氷ばかりでまずかった。
「わたしにとっては、人間にしてくれたひと、かな」
いや、違うかも。机に言葉を投げてから、ねえさんは顔を上げて、それから、真っ直ぐ私を見た。人をひとり刺し殺せそうなほどまっすぐで、子供みたいに純粋な目だった。鳶色は、私をみて優しく蕩けるように揺れた。
「人間としての立ち方を教えてくれたんだよ」
やっと大人になったのに、私には兄さんの言葉の真意が掴めない。兄さんは『呪術高専には絶対来るな』と私を何度も嗜めた。それは私が兵隊側だったからだろう。でも、兄さんだって、こっち側だった。兄さんは行ったくせに。ぎゅっと膝の上で手を握る。その先にくる言葉は、考えたくもなかった。
「わたし、最近ね。小学生の女の子ふたりの面倒を見てるんだけど、なんていうか難しいよね」
「それは、私みたいに“視える”子?」
「双子なんだけど、ひとりは視えて、もうひとりは視えない子」
私は視える兄さんが守ってくれたから、ねえさんが愛してくれたから、こうやって大人になって明日も明後日も多分、いつもどおり生きていける。臭いものには蓋。それが当たり前の世界に行ってしまった。だから、今では、ねえさんと別れて、血の繋がった家族と暮らしている。
「逃げ場はないの?」
「残念ながら。実家がアッチ側で」
「……私にできることはないかな、ねえさんがしてくれたみたいに」
ねえさんのレモネードには、すっかり小さくなった氷が浮かんでいる。それでも手持ち無沙汰にねえさんの細い指は、ストローをかき混ぜる。私の言葉にねえさんは目を細めた。おとなになったね。掠れた声がした。そういえば、はじめてあったねえさんはいくつだったんだろう。あんなに大人は大きいと感じたのに、目の前にいる彼女は、拍子抜けするほど細かった。
「ありがとう。気持ちは嬉しいけど、今回は難しいかな」
「そっかぁ……」
「ごめんね。でも、本当に、嬉しかった」
この世界は、想像以上に淀んでいる。映画のフィルムで日々を写したってきっとテーブルに落ちた水は水だし、ビルに命は灯らない。劇的なことは回らない。鈍い陽光の中でねえさんはレモネードを一気に飲み干す。
とっくに麗かな春は過ぎて、湿気が肌にまとわりついた。でも。ねえさんなら平気だよ。心の中でひとりごちて、淡い金色の髪に微笑む。「どうしたの?」私にねえさんがえくぼを浮かべて笑いかける。
「ねえさんなら、大丈夫だよ」
「そうならいいなぁ」
「ぜぇ〜〜ったい!!大丈夫!!」
私、人を見る目には自信があるの。
20.07.05