前略ユートピア
はじめまして!と声を僕がかけた時に、たったふたりのクラスメイト揃いも揃ってはぁ、と気の抜けた声だけをこっちに返してきたのを昨日のことのように覚えている。
目が真っ直ぐで瞬きの回数しか人っぽくなかった彼女。それから、一方は見た目が人形みたいに綺麗な彼。彼らふたりに初対面なんと声をかけるべきかで逡巡した。
中学でかじったレベルの英語、ハローなんて言葉が喉まで出かかっていたけれど「なんですか」と流暢な日本語が聞こえた。七海(当時は名前を知らないけど)のめんどくさそうな視線に凹みそうだったけれど僕は「はじめまして!」と叫んだ。多分、何回、あの日を繰り返したって同じことをするんだろうと思う。
桐野、君だってそうでしょ?
けれど、僕の脳裏で振り返る桐野といえば。人の良さを刻んだえくぼばかり目につく、それしかないとでもいうかのように。さて。果たして、あの顔は、僕のために向けられたことあったんだったか。
♢
「あれ、桐野だけ?」
七海は?という言葉が僕から発せられる前に、察しのいい桐野は「五条さんと任務だって」と首を竦めた。七海が、五条さんと。少し意外な気持ちとそりゃそうだよなという気持ちが混ざって、なんとも形容し難い唸り声をあげる。三人の同期としてひとまとめで行動することの多かった僕らも、一年の終わりになれば、時折、誰かが欠けてしまう。そう、ちょうどこんな感じで。
「七海くんは真面目だからねぇ。ま、落ちこぼれな私とかツテのない灰原より絡みやすいのかも」
「ん〜そっかぁ。それならしょうがないよなぁ」
七海の話をする時の桐野はいつだって、見たことのない表情をする。うんざりしたような横顔だったり、肩を落としてため息をついたり、おひとよしにもなる。なんというか、人間らしいのだ。
初めて会ったあの日を思えば、ずっといいのだけれど。桐野がゆっくりとこちらに視線をやってくるから、僕ははて、と首を傾げる。
「……わたしになんか、ついてる?」
「あっ、そういうことか!」
「どういうこと?」
僕は自分の中でやっと溜飲が落ちて、なるほどなぁ、と数回うなずく。なるほど、なるほど、そういうことだ。僕を心配そうに覗き込む桐野に向けて優しく微笑む。七海によく似た表情を浮かべる鳶色。それが全ての答えだと思った。
「七海にさ、サプライズ仕掛けようよ!」
桐野はぱちぱち、と数回瞬きだけを繰り返す。会話の流れを必死に探す桐野の手首をとって、勢いよく立ち上がった。驚いて声も出ない彼女をそのまま引っ張って、教室のドアを開け放つ。僕よりも細い手首を離したくはない、せめて、七海が帰るまでは。形容し難い心のうちを廊下を走って消化する。桐野に気づいて欲しい。いや、やっぱり嘘だ。桐野は一生知らないでいて。
「ど、どこいくの?灰原!」
「特に決めてない!」
「また?」
そうやって、また?とかいうくせに桐野の言葉からは呆れもなにものってない。まだ誰にも見つかってないからと二人で足音の大きさに頓着せずにひたすら廊下を走る。階段の踊り場に差し掛かって、僕らは立ち止まった。肩でぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返す桐野の背中をさする。珍しく丸まった背中は暖かくて。なんだか僕の胸もいっぱいになってしまった。僕自身の乱れている呼吸なんて、いまはどうでもいいや。
自分を人形みたいだと卑下していた桐野はもうどこにもいない。それが僕は嬉しくてたまらない。好きだと思った。こうやって、少しずつ人間らしさを獲得していく彼女をずっと、隣で見守っていたい。祈るみたいに空いている桐野の左手の指と絡める。もし、万が一。僕が今日をやり直せるとしても、全く同じことをするだろう。何年後でも、何十年経っても、死ぬ時でも、同じことを思える確信がある。
そうすれば、下を向いて呼吸を整えていた桐野の顔がばっと上がる。鳶色が見開かれて、色の抜けた髪が顔のすぐ横で反動でふわりと浮く。それから。それから、桐野はえくぼを作って笑った。
「灰原、わたしいいこと思いついたかも」
「えっ!なに!?」
一歩桐野に前屈みになって近づく。「近いなぁ」と桐野はまた笑う。「七海くんにサプライズしようよ」今度は僕の番だった。
「どんなやつ?」
「特に決めてない!」
そのやりとりだけで、酸素のたりてない僕らは、まさに箸が転がっても笑い転げるようなテンションで床に転がる。決して綺麗じゃない床も、少し曇っている窓から入る光も、全部が映画みたいに綺麗だ。いま、僕らの目に映る全てはなんて、なんて鮮やかなんだろう!
「なにやってるんです?」
鮮やかな色彩の中、淡い色素の髪をした七海は眩しくもまっすぐ立っている。廊下の踊り場でふたり、揃いも揃って寝っ転がっている僕らへ容赦なく不審な視線を浴びせる七海の登場は、それはもう、完璧すぎるシチュエーションだった。
「いろいろ考えたけど、七海くんいないとダメかも。私達」
「は?」
「まさしくそれだね!これからもよろしくね、七海!!」
ゆっくりと、握った指を解く。僕には、まだこの完璧な春をむげにする勇気も、計画もない。いつかの僕だって、この極彩色の日々をユートピアだと定義するに違いないから。
前略、10年後の僕へ。君だってそうでしょ?
20.05.21