中略ロマンティック
祈りのように組まれていた指を思い出す。どんな日も彼女の指先が震えていた記憶がない。どんなときもピン、とまっすぐ張られた琴の弦のように、正しい姿勢でいつも空を見上げていたので。
その姿勢はいつも、木の隙間から漏れ出るひかりのように眩しかった。
♢
「いーから、七海くんもおいでよ」そう笑って手首をひく、ひとまわり小さな掌。少しでも大きく振り払えばどうってことなかった。けれど、振り払ってまで背を向ける意味もなくて、黙って足を進めた。
人の少ない春の公園にぽつんといる、よく見慣れた黒髪の丸いシルエット。視界に収まるのは短い詰襟を着た背中だけで何をやっているのかは見当もつかない。きっと先行する彼女の頭の中には筋書きが入っているのだろう。一歩進たびひとつに束ねた色素の抜けた髪がふわりと揺れる。ああ、ほんとにみているだけではなにも手がかりはない。
「灰原、七海クン確保してきたよ」
「何をそんな得意げに言ってるんですか」
振り返った灰原くんにさっきまで引いていた手を大きく上に持ち上げる。その行為はまるで50m走で一等をとった小学生のようで、彼女の手をさっと交わして解く。そのまま彼女と反対の方向を眺める。「七海くんって猫みたい」と意味不明な呟きが耳に入って「は?」と彼女へ視線が戻されてしまう。今度は彼女の綺麗に伸びる背中しかない。
「おつかれさま桐野! こっちも準備オッケーだよ」
彼は男子高校生には可愛すぎるパステルカラーの水色のレジャーシートに座って、黒い丸い目を細める。「それにしても、本当にふたりは仲良いなぁ」とも言ってくるから思わず眉間にシワが寄ってしまう。
「座ろう? せっかくレジャーシートも引いたしさ。あ、飲み物も食べ物もあるから」
「……はぁ」
「七海もお昼まだでしょ? 今日桐野と二人で朝から作ってきたんだよ」
ほらほら、と人好きのいい笑顔に肩を押されてパステルカラーの上に一歩出る。座って座ってと左右から囃し立てられて、観念して黙って正座した。
「飲み物はともかく、食べ物はなにがあるんですか」
「あ、意外とノリノリなんだね?」
彼がくしゃり、と笑う。はい、と白い紙皿を差し出した。釈然としない心持ちでそのまま受け取る。
彼女はレモンの柄の入った淡い黄色のバックから、大きなランチボックスを二つ取り出して、真ん中に置く。「おにぎりが灰原作で、サンドイッチは私作ね」と簡潔に説明して、すぐ蓋を取ろうとする彼女を灰原くんが「ストップ!」と大きな声を上げて静止する。
「どうしたの、灰原?」
「せっかくだし3人で『いっせーのー』で開けようよ! この3人で外で食べるのはじめてじゃん!」
「任務帰りのラーメン屋や中華料理店、ファミレスは『外』へ含まないんですか?」
私の質問には答えず、彼女は「ほらほら七海くん、見て」と背中を叩いてくる。見ろと言われてもいまは蓋しか見えないが。
「最初はおにぎりだけにしようかと思ったけど、七海くんパン好きだしな〜って」
「七海のよく行ってるパン屋も見たけどさすがに高くてね……私ので良ければどーぞ」
ね、と彼女が灰原くんに同意の視線を送る。五条さんと同じぐらい面倒な人だと思うこともあるが、こういうふとした指先とか視線をみると思い知らされる。この人のうつくしさだとか、そういう類いの何か。
三方それぞれ、左右不揃いで不格好な割り箸が、大きなランチボックスからひとつひとつ持ち上げていく。大きな唐揚げ、ずらっと並ぶ卵焼き。売られたときと同じ形のウインナー。まるでデザートのように区切られた大学芋。
「子供のころさぁ、プチトマト苦手だったんだよね」
「僕の妹も嫌いだったなぁ。よく親に隠れて押し付けられてたよ」
「食べてあげた?」
「一個だけね! それ以外はずっと戻してたよ。七海は子供の時苦手なものあった?」
卵焼きを咀嚼している最中に彼は話題を振ってくる。わざわざ早く飲み込む理由も意義もないはずだけど、私はそのまま紙コップのお茶で甘い卵焼きを流した。
「子供のころなんて言ってますが、私達はまだ子供扱いされてるでしょう」
「論点そこなの?」
「そうだよ七海! それよりも七海の苦手なもの教えてよ」
彼らのペースに飲まれた自分が嫌で、どうしてもすんなり答えられない。相変わらず左右で「七海くん、グリーンピース苦手そうじゃない?」「あーわかる。あっ、意外と梅干しとか苦手だったり?」「やっぱ、毎日パン派だ」なんて私の苦手なものについて議論をかわしている。
別にグリーンピースも梅干しも昔から特別好きではないけど、苦手というものではない。じゃあ好き嫌いはないかというと、そんなことはない。たった1年間ですっかり彼や彼女に解されてしまったらしい。ため息をついて、挟んだウインナーを一旦、紙皿におく。
「……強いて言えば、納豆ですかね」
強いて言えばですが。と強調すれば、沈黙が落ちる。不審に思って彼らを見れば顔を見合わせて、それから破顔した。
「あー! 納豆ね。うわ、なんか、ぽい。ぽいね? 灰原」
「うん……! そっかぁ、七海も苦手なものってあるんだね」
私の視線に気づいたのか否か、彼女が彼の肩を指で突く。「一緒だ」とにこにこ笑う彼からふい、と視線を逸らす。
「そういう灰原くんこそ、苦手なものなさそうですけど」
「そうだよ、ないの?苦手だった食べ物」
「あはは、僕はわさびかなぁ。昔、海鮮丼を鮮魚店みたいなとこで食べたんだけどね、舌がおかしくなるかと思ったよ……」
そのときのことを思い出したのか、苦しそうに目を閉じる彼に、彼女が「そっか」と柔らかく微笑む。その微笑みはどこか陽だまりのようだった。なにか見てはいけない神聖ななにかに思えて、私は視線を手元に落とす。紙皿の上にあるものを食べることもなく、私ははぁと溜息をついた。
「主旨はなんとなくわかったんですか、花見には早いですよねこれ」
私の視線は変わらず手元に落ちている。しかし、彼ら2人の動きがピタリ、と止まったことだけは見なくてもわかった。
「あはは、見事に三分咲きって感じだ」
「開花情報と同時は早すぎたかなぁ」
「いえ、そういう問題ではなく」
灰原くんと彼女は白々しく視線を明後日の方角へと向けている。私だってそこまで鈍いわけではないし、なんだかんだでこのふたりと一緒に一年間過ごしてきたのだ。一年間。それだけで彼らが周りをよく見ていることぐらい嫌というほど思い知る。
「いやぁ、最近七海だけの依頼も増えてきたし、忙しそうだなって」
彼が頰を掻きながら、気まずそうに言い訳する。言い訳?いや、理由だ。言い訳というにはあまりにも私にとって都合が良すぎる。彼は困るぐらいにまっすぐだ。自分のすべきことをはっきりと見ている。それがとても眩しいと思うこともあるし、無論、煩わしさすら覚えることすらある。けれど。嫌いではないのだ。
「3人しかいない同期だしさ、もっと頼ってよ。七海くん」
「そうそう。七海は真面目だから、任務にも色々呼ばれやすいけど、ちょっとは言ってよ」
「……充分ですよ。それで」
左右で今の聞いた?とひそひそと囁きあうので何も聞こえないフリで私は紙コップのお茶を呷った。
♢
「あ。ごめん……実家から電話」
電子音が鳴り、ピタリ、と彼女が一瞬固まる。彼女は私たちに向けへらり、と笑ったけれど、それは本当に笑っていたのかは違うのだろう。けれど、彼女に何かを言う前に、色の抜けた髪をゆらゆら揺らして彼女はこちらに背を向ける。
「大丈夫かな、桐野」
「どうでしょうね。いつも通りちょっと手こずるんじゃないですか」
決して楽ではないでしょう、と続ければ、隣で彼は静かに目を伏せる。彼女の背中は随分遠くまで行っている。けれどここからみても、彼女の背中はまっすぐ伸びている。苦手なものと向き合っていても、それだけは変わらない。
「七海。やっぱり僕、行ってくるよ」
「……どこに?」
「決まってるだろ」にっ、と彼が笑う。私のわかり切っている答えをそのまま彼が走っていく。私はその黒い背中を視線だけで追いかける。彼が彼女の手元から携帯を取り上げて、何かを言うのを見て、私は静かに目を閉じた。
ただ、私はふたりを見守っていた。
20.01.10