人鳥哀歌
「七海くん、七海くん」
優等生のように真っ直ぐ伸びた背中。姿勢だけは100点満点の彼女が振り返って、もう一度「ねぇ、七海くん」と呼んでくる。ただ振り返るなら可愛げもあるのに、ぐっと椅子の前脚2本を宙に預けて、そのまま私の机にもたれかかってくる。彼女がしつこい場合、それは灰原くん絡みか、至極どうでもいいことの二択だ。正直なところ、私からすれば灰原くんのこともそこまで重大なトピックかと言われれば、なかなか頷きがたいところがある。
以前のように人形じみてなにも言わないよりはずっとマシではあるけれども。
「七海くんはさぁ、ペンギン見たことある?」
「また唐突な。このまま我が道を行くと末路は五条さんですよ」
「それはいやだな……。っていうかそんなこと言っていいの?五条先輩にチクっちゃうよ?」
「そうなったら全員が巻き込まれるに決まってるでしょう」
ため息をひとつ。彼女の最初に発言したペンギンという話題はすっかり遥か遠くへと流れ去ってしまっている。彼女との会話は大抵そういうものなので意に介せず、手元の課題に視線を落とす。私の視界からは彼女は消えたが、彼女は後ろを向いたままで、彼女の丸い輪郭が私の手元に影を作る。まだ話は終わっていないらしいが、彼女の悪癖に付き合っていてはいつまでも帰れない。さっさとやって帰るに越したことはない。けれど、彼女は私のそんな思考など見えないから、「ねぇ、七海。」とまた私を呼ぶ。早く帰ってこい、灰原。灰原くんは下に妹がいると言うだけあって彼女の扱いは高専では随一である。いや。どちらかというと彼女をここ混ぜ増長させたのが灰原とでも言うべきか。
「『我等、氷の上、炎天下を知る。』って漢詩ありそうじゃない?」
「アナタさっきから一体どこから話題を発展させてるんですか。いや、それよりも前向いてレポートを進めるべきでは」
一文字も進まないレポート用紙に何度目かのため息が落ちる。彼女はそんな私に構わずあはは、と楽し気に声を上げた。この人の笑うタイミングはおかしい、まぁ、もうなれてしまったからどうってことはないのだが。途中で止まっている文章を彼女が指をさす。
「ここ漢字違くない?七海くんが誤字するのは珍しいね」
「アナタの相手しながらスラスラかけるほど完璧じゃありません」
一体なんだと思っているんだ、とひとりごちる。悶々とした気持ちで右手に握ったシャープペンシルを持ち直す。どうせ、彼女にはなんとも思われていないだろう。いつだって、彼女の中には灰原ばかりだ。
「堅物っぽかったけれど、実は、ただのおひとよし?」
彼女の言葉に思わず顔を上げる。「あ、七海くんがこっちみた」とび色の目がふっと柔らかく滲む。日本人形みたいな黒髪に似合わないとびいろはまるで春のようだった。春なんて、とっくに過ぎたのに。
「それでそんなに煽て何をしてほしいんですか?」
「何もないよ……あ、そうだ。ねえ七海くん」
彼女がわたしの顔を覗き込む。飄々とした空気を必死に纏っているだけで、目はやはり静かな春だった。らしくないですよ、と言いかけて止める。日本人形でいることが彼女らしさだなんてそんなこと言えるはずがないだろう。
「まだ何か?」
「七海、って呼んでもいい?」
そんなこと、といいかる。逡巡。彼女は在りたいようにあればいい。けれども私が彼女に遠慮してやる必要性などないのだ。そして彼女だって遠慮がちな私など求めていない。
アナタはまだうららかな春でも、いつか、十年だとかその先では、春の雷のように激しい光になるかもしれないから。
「そのぐらいなら各自判断できますよね」
「……つまり?」
「そんなことは別に好きにしていいですよ。七海でも、七海くんでもどちらでも」
七海、ありがとう!弾けるように彼女は、いや、桐野は笑う。さながら、それは真夏の昼に落ちた小さな春だった。
20.06.20