碧羅を纏った天使のレクイエム

夏になると肌を刺すような、指の感覚を奪っていくあの冬が恋しくて。冬になるとアスファルトからゆらゆらと立ち上がる陽炎を探したくなる。結果論、わたしはいつだって、ここじゃない遠い何処かに囚われているだけ。

けれど。春は、炭酸が舌や喉で弾けるように、消えては現れて、わたしの愛した日々が絡みついていて、外れない。
過去を眺めて、あの日に帰れれば、と反実仮想にばかり心を砕いてしまう。ガラスの青さを眺めながら、まだ3分の1程度残っているラムネと、その水面をカラカラと転がるびいどろをもてあそんでいた。夏至を過ぎても、学のないわたしでは具体的に昼の長さなんてわからない。顔に当たるオレンジ色の光が煩わしくて、くるりと太陽に背を向ける。そうして広がったグレーの視界に入ってくる己の黒々しい影法師を踏みつけた。厚底のサンダルで地面を軽く踏みつけるだけでは気分が晴れない。
さっき出店で引いたおみくじをなんとなく開く。折り目正しくおられた白くて細長い紙。なるほど、待ち人きたる。1番の目玉である運勢なんてどうでもよかった。だって、大吉だろうと凶だろうとわたしの待ち人は来ない。死人には会えないから、術師と一般人は合わない方が両者のためだ。
「夏なんて早く終わればいいのに」
そういえば、と。昔、影法師で心臓のあたりを踏まれるとそこが痛くなって、足で頭の影法師を蹴られたらあわや大惨事、なんて子供騙しを読んだことを思い出す。禪院の分家であったわたしは昔から影絵で呼ぶ式神たちを知っていたからうっかり信じてしまったんだったか。わたしの式神術とはレベルの違う術式。石階段の低いところに腰を下ろして、やっぱり恨めしく呟いた。
「早く、早く、夏なんて終わればいいのに」
わたしごときがどれだけ声に呪詛を込めたって、理不尽で呼吸器官も心臓も臓器も形成されたこの世界に変化はない。せいぜい周りの空気を揺らすだけだ。世界に臓器なんてないし、呆れるほど陳腐なメタファーだ。あー、と首を伸ばそうと上を向く。夏の夕暮れを遮るように「おい」と少女の声がした。真希の目がきゅっと細められる。
「なにめんどくせぇこと言ってんだよ」
「真依は?」
「家。呪霊いっぱいいるから祭りにはきたくねぇってさ。私はなんとも思わねぇからこっちまできただけ」
短いおかっぱの毛先をゆらゆら風で揺らされながら、最適解を選んできたとでもいうかのように立っている。まっすぐ、手入れの行き届いた琴の弦のようで、わたしはどこまでも真希に同情した。使われない琴を手入れするなんて、悪趣味じゃないか。わたしたちは見栄を張るための装飾じゃない。わたしたちは人間だ。人間だから装飾品であるのも、否定するのも自由だ。ねぇ真希、知ってた?
「今、真依、泣いてるかもね」
「……うるせぇよ」
ふふ、とわたしが薄く笑えば、反対に、真希は口を真一文字に引きむすんで不満気に見下ろす。やっと少女らしい表情がちらりと覗く。人間として扱われない。子供として扱われない。その消化不良で腹のそこでくすぶっている感情。わたしだって、あの家じゃあ完全な人間として見られてない。けれど、わたしはもう人間だった。ずっと前から、愛されていたし、今だって愛している。着物の袖から伸びる細い子供の手を包む。力がこもっている骨ばった腕は小刻みに震えている。泣くのを我慢しているのが愛らしくて、わたしは真希の右腕を取って、手のひらに食い込むほど強く握りこまれた指をそっとほどく。
「ねぇ真希、知ってた?ラムネってレモネードの聞き間違いなんだってさ」
「それがなんだよ」
「ん?別に、深い意味はないよ。全部の言葉と所作に意味があると思わないの。小説じゃあるまいし」
「まわりくどいっての。説教は飽きた、つか、説教したいんならわかる言葉で話せよ」
ぱちり、と軽い音を立てて真希がわたしの手を振り払う。数分だけでも石段に置いてあったラムネ瓶の側面はすっかり汗だくだった。行儀悪いのを理解しつつ、スカートの裾で指の水分を拭き取る。「小学生には難しかったかぁ」とひとりごちて、残りのラムネを煽る。炭酸はさっきよりも弱くて、ただ舌に甘ったるいものが残った。影法師はすっかり伸びきって、赤い日の色もずっと西の地平の果てに追いやられた。夏は日が長いけれど、沈んでしまえばそんなの関係ない。今日は月が綺麗だ。きっと、『アレ』もわたしの呼びかけに答えてくれる。待ち人は来ないだろう。どれだけ待ったって、わたしを初めて愛してくれた人も、わたしにとっての春さえもくるはずもない。
「そうだ、真希、ラムネ買っておいでよ」
「はぁ?パシるなよ、飲みたいんなら自分で買えばいいだろ」
「いいからいいから」
「しつけーなぁ。じゃあ、どこで買えんだよ」
わたしの声に眉をひそめつつ、ん、と無造作に腕を差し出す。その小さな子供の手を取って、わたしは小銭をおいた。真希が珍しそうにカチャカチャと手の中で小銭を鳴らすのを見て、頬が緩んだ。そういう子供っぽい所作が増えて欲しいのだけれど。真希はそれでも、そういうところを一瞬で取り繕ってしまって、素知らぬ顔してわたしに背を向けてかけていった。
真希の足元に広がる影法師は近い将来を示すみたいに、地面に這う。
夏も秋も冬も嫌いだ。
死んだ人は還らない。待ち人は来ない。
それでも、過ぎた季節はまた廻ってくる。たとえ、全く同じものではないとしても。いつだって手を引いて、わたしの隣にいてくれた彼はずっと昔に消えてしまった。なんなら彼と過ごした日々は、わたしの脳内の時間ほどは長くはなくて。「いつだって」なんていう形容は正しくない。それでも。縋るように振り返ると、七海はわたしに呆れたため息を返してくれる。あのね、七海、灰原。本当は、それだけでよかったの。
「ふたりも来ればいいのにな」
でも、きっと来ないね。わかりきった答えを口の中で転がす。
どんどん青が濃くなっていく世界を他人事に眺めたまま、わたしの見ている世界はどこか懐かしい東京とかぶさる。灰原と七海と一緒に巡ったあの祭りは今も続いている。初めて食べたかき氷の味も、なにもかもが忘れられない。石段の上でわたしはぎゅっと膝を抱えて、小さくなった。

もし、もしも。灰原があの日、死ななければ。
わたしが素直に七海に恋をしていたら。

反実仮想、たられば。ただの無意味な文字の羅列。そこが変わったらわたしがこうではなかった確証はない。それでも、わたしはこうやって苦しくなったときに手首を掴んで、わたしを引き上げてくれる誰かをずっと待っている。誰だっていい。待ち人なんて、それでいいよ。
「おい、寝てんなよ。大人のくせに」
「……大人はねぇ、子供よりずっと疲れやすいんだよ。ほら、子供は風の子っていうし」
「ひとのこだよ」
言葉とともに、冷たい物が首筋に当てられる。ラムネだな、と腕に押し付けた顔をそっと上げる。タイミングよく吹いた風が隙間から吹き込む。前を見れば伸びた前髪を風に荒らされたけれど、真希を見上げる。ここには街頭なんて気の利いたものはないから、真希の顔は黒く塗りつぶされて見えない。ひとのこ、人の子、他人の子。真希の吐いたやけに大人びた響きの言葉の意味を探してしまう。
「うん、知ってる。わたし、真希と真依が立ったばっかりの頃に会ったし」
「そこは生まれたときじゃねぇのかよ」
「真希は子どもである以前に人間でしょ?嘘は良くないもの」
口にこそ出さなかったけど、真希はわたしに、しかたねぇなぁという表情をして、それから「これからどーすんだよ」とため息をついた。これじゃあどっちが大人かわからない。でも、きっとわたしたちの境界線は曖昧な方がきっと幸せだ。わたしは石段から立ち上がって、スカートをはたく。真希の上目づかいの真っ黒な光彩の中にわたしが写っている。
「これから登るよ」
「正気か」
ぼやいた声は聞かなかったことにして、サンダルを履いた足を一段一段上に乗せていく。広くて急な石段で、昔膝を擦りむいたことを思い出して、わたしは振り返った。真希は平然とした顔で、わたしの一段後ろに立っている。つよいなぁ、すごいなぁ。わたしとは全く別の生き物だ。
どうにもならなくて誰にも届かない言葉を嘯く。「夏なんか、早く終わればいいのにね」後ろを歩いていた小さな真希の影が揺れる。馬鹿じゃん。その声は掠れていた、真希の待ち人はいつか迎えに来てくれるといいね。1番のわたしの願いは、真希が待っているだけじゃなくて、迎えに行けることだよ。無論、人間として。右手に握りしめたおみくじはくしゃりと鳴く。

23.0528 再公開

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