僕らがまだ誰でもなかった頃

懐かしい夢を見ていた。まるでお告げのようだと口が歪む。

鏡の向こうのわたしは、疲れた顔をしている。純粋に寝不足が祟っているのだろう。灰原が死んで幾度めの夏がきたのか、自然と脳内でカウントする。5回目を超えたときから、灰原の墓の前で泣くことすらできなくなった。蝉の声はただ煩わしい。夏の祭りは耳鳴りがする。ため息をついて、顔の横に垂れ下がってくる髪を耳にかける。人工的な金色の髪。窓から斜めに差し込んでくる陽光が鏡に反射してきて、わたしはきゅっと目を細めた。今年の夏もどうやら、暑いらしい。
「あ。おはよう、真依、霞」
「おはようございます、今日子先生」
「今日子、根元黒くなってきてるわよ」
「来週、東京行くからそのときまでに染めるわ」
朝の挨拶もロクにせず、真依はわたしのつむじを飄々とした顔で指差す。隣で霞が眉を下げて「真依〜」と真依の腕を掴んだ。朝から元気だなぁ、という呟きはまだアラサーなので必死に飲み込む、流石にひとまわりも下の子に言われてしまうと、否応でもなく時間を感じてしまう。
「でもいいですね、東京!私もいきたいなぁ」
「あら、霞。学長の付き添いで東京行くんじゃないの?」
「行っても、さすがに観光なんてできないよ……」
それはそうだ。わたしもしみじみと頷く。あくまで仕事だし、高専は都立といえど僻地の僻地にある。三年間あそこで過ごしたわたしにはよくわかる、今はもうちょっとコンビニとか近くにあったりしないだろうか。いや、ないな。むわっと肌にまとわりつく湿気にうんざりしながら、軋む床を歩く。東京校もわたしが在学中のときは古かったけれど、走ってもきしんだりしなかったものだ。今じゃ床に座り込むなんて想像もつかない。
「来週の東京って高専?」
「違うよ、完全プライベート。まぁ、ちょっと実家の用事はあるけど、高専には寄らないつもり」
いつもならこんな食い下がらないのに、真依は珍しくわたしに質問をしながら歩いている。小さい頃はそれこそ、真依はわたしか真希の後ろをついて離れなかったものだけど、二人が高専に入ってからはそれもなくなった。反抗期かなぁ、髪とか染めてくるかしら。と心配していたけど、そんなことになっているとかは耳に入ってこないから、まぁ、平気だろう。質問しておいてだんまりな真依を振り返って、見上げる。いつからこんなに大きくなったんだろうなあ。真依は、わたしの視線に一瞬、わざとらしいまばたきをした。隣を歩く霞の心配そうな顔からぷい、とそっぽを向く。
「東堂が」
「葵がどうかしたの?」
「…………東京に行くらしいんだけど」
「ああ、顔合わせ?でもあれって霞が付添いするでしょ」
「違うわよ。東堂の、アイドルの、云々」
真依に似つかわしくない言葉を吐く、歪んだ顔に思わず頬が緩む。話は読めた。口をへの字に引きむすんで、気まずそうに、短い癖毛の毛先を掴んでいじっている。相変わらず甘えるのが下手だなぁと思いながら、わたしは「仕方ないな」と後れ毛を耳にかけ直す。正直なところ、わたしだって真希に会いたい気持ちがある。今までの生活の中で、五条さんのことを嫌いと思ったことはない。ないけれど、面倒くさい人であるのは否定できないので、ちょっと真希の精神状況が不安ではあるのだ。
「わたしがそれに付き添ってあげる。わたしも真希に会いたいから」
「……そういう意味ではないけれど」
「どうだか。ね、霞」
「え。私に振らないでください……!」
慌ててふためく霞に、あはははと笑い声を上げてしまった。それをみて霞はさらに慌てる。真依は大人ぶって「今日子、霞をいじめないの」と口にする。わたしは首をすくめる。伸ばした前髪が風で持ち上がる。毛先が白く透けた。
ああ、わたしは、何年たっても憧れた七海のような輝きを手にすることはない。

23.05.28 再公開

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