私たちは黎明の残夢に佇んでいた


月が泣いていた。
帰らなきゃ、早く、君のところへ帰らなきゃ。靴が泥で滑った。それでも踏ん張ってぬかるんだ土にもう一方の足を出す。だって、桐野が泣いていたら、それを拭うのは僕であってほしいから。秋の墨で塗りたくったような夜空にポッカリと月が浮かんでいる。満月、地面が月影によって浮かび上がっている。どこを目指しているのかもわからなくなりそうだった。


口から吐く白い息は、いざ冬になると、赤い指先を温めるのには役に立たなくて困る。
春の前兆は、桜の花弁が雷みたいに陽光に光ること。君に見せたくて見せたくて、その小さな手へ伸ばしてしまうんだ。だって、木漏れ日から溢れる陽光と、ひらひら丸い花弁って形容できないほど美しいんだよ。ただ丸い花弁がくるりと翻って、淡い花弁も白く光っている。そんな目の錯覚が、困っちゃうぐらい綺麗なんだ。
かき氷の大きな氷を噛み砕くような、花火が夜空で破裂するような、派手な音と一緒に夏が居ついて、気がついたらもういない。

冬、春、夏。そして秋。いつだって僕の一年は秋から始まる。今までの暦なんてもう参考にならない。早く、早く、早く。頭の中でひたすら急かす声だけがしている。
僕の秋は、毎日のように帰り道を探す。路地裏、海の底、森に連なる鳥居。今までの全てか期待外れだった。それでもなお、全部を覗いて七海と桐野の待つあの日に帰ろうと、無駄な努力を重ねる僕がいるんだ。木の裏をみる。でこぼこの幹の裏には帰り道は見つけられない。はぁとため息をつめ先に落とす、僕の視線も落ちてその場にへたり込んだ。風が吹いて、髪を荒らすだけ荒らしていった。しばらく風の音だけに集中していた。耳を過ぎる風の音。意識は耳元からじわりじわりと範囲を広げ、遠くへ広がっていく。木が枝と枝を揺らす。落ち葉が転がる。紙が捲れる。
ばっ、と勢いそのままに立ち上がる。紙の音?まさか、という気持ちと、絶対そうだという確信が僕の胸をいっぱいにした。ああ、そっか、そうなんだ。左右、上下を見回すけど、紙の束らしいものは見つからなかった。とりあえず探しに行こうと一歩足を踏み出す。ザクザクという音とともに月光も、スポットライトみたいに僕の周囲を明るくした。視界の端、紙切れ一枚。唾を喉まで押し込む。白い小さな紙、とてもじゃないけどこれだけじゃあんな音はしない、わかってたけど拾い上げようとした指先は小刻みに震えていた。おみくじ、読み上げたつもりだった僕の声は、痰がからんで音にならなかった。

『待ち人、きたる』

破られていない。でも、必要以上にぐしゃぐしゃで、いらないシワがたくさんついていた。多分、捨てたかったんだろう。でも、破ることもできない。そんな葛藤が僕の胸をついた。ひりつく喉が、酸素を求めてひゅう、と音をあげる。
ねぇ桐野、君は今も僕を待ってくれている?

23.05.28 再公開

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