青春は僕の足元に埋まっている

初めて髪を染めたのは16になった日だ。
当時のわたしといえば、実家では『呪力のある女』というラベルしか持ち得ていなかった。高専に通えたのだって、偶然と奇跡がかわるがわる重なってできたこと。当時、うちの家は没落の真っ最中だった。
____家を存続させるため、血統のよい男を、術式に恵まれた術師を____どうにか婚姻関係を。五条家の坊が高専に入ったらしい。この際怨敵などどうでもいい、どうにかうちの一族を……。
外をよく知らないわたしは、家の人に頷かされ、高専の制服に腕を通した。顔の造形が優れているわけじゃなかったけれど、髪だけは綺麗だね、と何度も何度も櫛を通してもらった。この黒髪だけは美しい。これだけは、どうか大事になさい。親の言いつけを破ったことなんて、今までなかった。だから、16になったら家に帰って結婚するしかない。それ以外の道を知らなかった。でも、雨の中で灰原がわたしを人間にしてくれた。七海がわたしに示してくれた。だから、わたしのこの手のひらの中にはもう黒髪以外の愛すべきものが溢れている。
櫛を箱にしまう。ダンボールに詰めた夏服の一番底へ。

日に透かすと、手のひらに収まるぐらいの虹色のアーチが生まれる。七海の頭上でよく見たものと似ている。彼のものよりは随分と人工的な虹。毛先を持ち上げて、また角度を変える。窓ガラスから入る光が眩しい。ああ、なんて綺麗だろう。何度目かの感嘆の息を漏らす。

「桐野、髪……」
「うん。染めてみたの」
「似合うよ!黒髪もいいけどこっちだと顔色良く見えるね!」
「……驚いた。でもなんで金髪に?」
七海の瞬きのスピードが少しだけ速くなる。呆けた顔をした分を取り返す、というような意図が見え隠れしている。らしくない、けれど、存外良くあること。平然とした顔でわたしの後ろの座席に腰を下ろす七海の髪に陽光が集まって、白くて淡い光になる。彼はわたしの視線には何も言わずに、ただ、鬱陶しそうに窓ガラスを睨む。
「七海わかんないの?!ほんとうに?」
「ほんとうに。どういうことだかさっぱり」
誰にも相談はしていなかったけれど、灰原にはお見通しだったらしい。言ってもいい?と焦ったように問うてくる黒い目に、わたしは唇に人差し指を当ててナイショと笑う。
「これはわたしと灰原のヒミツね」
「オーケー了解!」
「朝から元気ですね、ふたりとも」
大きな音を立てて、灰原がわたしの前の椅子に座る。うんざり、という声が後ろから返ってくる。対照的な二つの声にわたしは肩を震わせる。こんなわたしの突発的な爆笑にもふたりは慣れっこで、灰原は茶化し、七海はたしめる。ねぇ、わたしはいつまでも、いつまでも、ここにいたい。わたしはまだお嫁にはいけないね。
「君達一年は本当に仲がいいね」
「あ、夏油さん!!おはようございます、どうしたんですか?ここにくるの珍しいですね。あっ、何か任務いっしょに行くとか?!」
「灰原は一旦深呼吸を。……でも、本当に何か用事ですか夏油さん」
僕が言いたかったのに……とうなだれる灰原の背中を軽く叩く。質問にこそなってはいなかったけれど、似たようなことは聞いてたでしょ。と耳打ちしてみる。そんな風にわたしたちがもたついていると、荒い足音がしてくる。夏油さんはわたしたち3人にひとつ目配せを贈る。わたしはすこしだけげんなりした。
「おせーよ、傑!一年にはとりあえず必要になったら連絡すりゃいいじゃん」
「悟はもう少しホウレンソウを覚えた方がいい」
「んなもん食えりゃ問題ねーよ」
五条さんの登場により、さらに教室の雰囲気が変わる。今日はやけに来訪が多い日だな、とどこか他人事のように眺める。わたしは五条さんのことは好きでもないけれど、なんとなく、家で言われたことがリフレインしてくるから、少しだけ、息がし辛くなる。サングラスの黒いガラス越しに、綺麗なブルーの視線と重なった。五条さんは、げぇ、と真っ赤な舌を出した。そこまで嫌そうな顔しなくても良くないですか。
「全く……。あとで連絡をするかもしれないから、少し注意してくれるとありがたい。連絡は……」
夏油さんの指先が、宙を彷徨う。
「七海でいいよね?」
「わたしも七海がいいと思う」
「でしょうね。夏油さん、何かありましたらご一報ください」
「悪いね」
「いえ、よっぽどのことがなければ出番はないでしょうし」
「すーぐーるー、早くいこーぜ」
「待て、悟。概要ぐらいは……ってもういないな」
夏油さんは「悪いね」と目を細めて謝る。灰原はブンブンと激しく首を左右にふるのを見て、そのまま背を向けた。忙しい人たちだなぁ。それから数分と経たず、夜蛾先生が入ってきて、「セイショウタイ」について軽く説明していった。セイショータイ。昔聞いたことのある単語。
「セイショータイかぁ……。あ、桐野はなんか知ってたりする?」
「う〜ん。聞いたことがあるかなぁぐらい……?」
「まぁ桐野が知らなくても不思議じゃないだろう」
「僕らはそもそもの概念がわかんないしねぇ」
椅子の背もたれに腕を顎を乗せる灰原に苦笑する。わたしたち3人はあまり呪術界には詳しくない。わたしは一応、これでもかの御三家、禪院家の分家の末端ではある。でも、末端すぎてなにもわからない。力になれればよかったなぁ、と冷たい机に頬をつけて目を閉じる。冷たさはほんの一瞬で消えて、わたしの生ぬるい体温が移った。
「夏油さんにも言ってたが、私達に協力要請が来る可能性はほとんどない」
「……あの五条さんと夏油さんだもんね」
「そういうことだ」
どこかホッとしているわたしと七海に反して、灰原だけが不満そうに唇を尖らせている。「僕も夏油さんと任務いきたいな」彼にしては、珍しく眉も、口も、声音も全部で不満だ!と叫んでいる。わたしたち一年三人の中で一番大人びているのは見た目的にも、性格的にも七海だ。けれど、ああ見えて七海は口やら態度やらが最悪の時が多々あるので、そういう時に灰原の兄っぽさで丸く収まる。わたしは役立たず。ただそこにいるだけ。式神との相性が最悪すぎて、ごく稀にしか使えない。
温い机は不快だったので、ゆっくりと体勢を正す。真正面には灰原の黒目がちの大きな目。彼は二回ぱちぱちと瞬きをして、首を傾げる。さっきまでしょげていた年相応らしい灰原の姿はない。前からよく言われていることだけれど、灰原はわたしのことを小さな子供……さしずめ彼の妹と同一だと思っている節さえ感じる。特別扱いといえば聞こえはいいけれど。
「わたしってなんの役にも立たないよね」
「どしたの突然」
「いつものセンチメンタルか?」
冷たく突き放されて、思わず背中がピクリと硬直する。「まぁまぁそう言わずに」と七海をなだめる灰原の声を聞こえていない振りをして、わたしは七海くんの方を振り返った。涼しい顔に、眩いばかりの陽光が当たっている。実家で見た、ガラスが粉々に割れて、軋んだ床に広がるあの光景に似ている。わたしの視線に、めんどくさいと顔にデカデカと表しつつ、机に文庫本を伏せる。
「じゃあ七海はわたしの良い所とか言えるんですかあ〜?」
「君はあれだろう、姿勢がいい」
即答されるとは思わなかった。しせいって姿勢?
わたしには真っ黒で夜みたいな髪しかなかった。それは過去だ、もうわたしにはないし、必要がない。それでも手のひらに櫛がないのは怖かった。でも、姿勢なんて。
「しせい」
「……市政でもないし市井でもないからな」
「わたしそんなアホだと思われてたの」
「事実でしょう」
「自分は頭いいからって……」
沈黙。
謎のむず痒い、気まずい沈黙だ。息を吸うのすら遠慮するような。ぶち破るように、灰原が大きく息を吸った。空気を吸う音って、こんなに目立つものなのか。七海も目を見開いている。
「七海も桐野もほんっっっと素直じゃないね!そこ、七海は姿勢が綺麗だね、桐野はありがとでいいじゃん。も〜、意地っ張り。似た者同士」
「別に意地はっているわけじゃ」
口ごもりつつ、弁解を試みる。けれど、最後まで言い終わる前に「そういうところ」だと人差し指を刺される。七海はだんまりを決め込んでいる。電子音がけたたましく鳴り響く。七海が携帯を開いて一瞬、停止する。「七海?」呼びかけると、七海の眉がピクリと跳ねた。
「すみません、ここで電話にでる」
らしくないなぁ。
電話に動揺なんて珍しいこともある。灰原がちょいちょいと手招きをして、身体を傾ける。小さな声で「珍しいよね」と彼が呟く。
「どうしたんだろね七海」
「うん。タイミング的に夏油さんからかな」
「夏油さんが?何かあったのかな、でも五条さんと夏油さんだよ」
今度は灰原が眉を寄せる番だった。だって、このタイミングの電話ならそれしか考えられないじゃない。言い返そうと口を開いたときに、七海が叫んだ。あの、七海建人が。感情のやり場がなかったのか、立ち上がった七海は足元の椅子を軽く蹴る。わたしの視線にはっとしてそのままふいと顔を背けた。
「沖縄って。なんでよりによって沖縄なんですか?……ハァ、今から?無茶にもほどがある!」
狼狽しきった七海の叫びは、わたしと灰原の視線を引きつけるだけ引きつけ、夏油さんらしき人からの電話の方はあっさり切れた。沖縄、という単語にわたしは首を傾げる。沖縄って、あの沖縄だろうか。灰原に確認しようと横を見れば、彼の目には無数の星が瞬いていた。これは、多分……夏油さんのお手伝い、というだけじゃない。「沖縄!!」という灰原の大きな声が教室に響き渡った。
「沖縄だって!!!これからいくの?そこで何をするか聞いた?日帰り?泊りがけ?」
「灰原」
「僕ずっと行って見たかったんだよね〜!」
「……遊びに行くわけじゃない」
「それはそうだけど!」
呆れ果てた七海の隣でキラキラとした目を幾度もまたたかせる灰原は、それはそれは楽しそうだった。なんなら今からそのまま突っ走って行ってしまいそうなほど。行くのは楽しそうだけど。七海が縋るようにわたしに視線を投げる。灰原の熱に当てられてすっかり参っているらしい。わたしでも思い当たる範囲で質問してみた。「どういくの?」という至極真っ当な問いに七海の顔がぐしゃぐしゃになる。厳密にいえば眉間から鼻筋にかけてのシワが大変なことになった。
「……使えるか?式神」
そういうことか。とわたしが頷くのと、灰原が黙り込むのは同時で。七海は居心地が悪そうに、長い腕を組む。たしかに今から沖縄行きの飛行機を予約するよりも、わたしの式神で空港まで行ってしまったほうがいい。都合のいいことに式神の上に乗っている時は非術師には見えないし。でも、わたしは。
「飛行機の方が確実じゃない?どこまで行くの?」
「那覇空港だからそれでも問題はない。……ただ、それだと呪具を持ち込めるかが怪しい」
「あー、七海は鉈だもんね」
「まぁ……そこは桐野次第だし、いくらでもやりようはある」
わたし抜きで進む話に、膝上の手のひらに力が入る。俯いた顔に横にはらり、と髪が垂れる。金色。人工的な朝。永遠の黒い夜の先に作ったわたしの居場所。七海は厳しい顔をだったけれど、灰原はぽかん、といった効果音がしてきそうな顔だ。黒曜石みたいな灰原の虹彩にはわたしの輪郭がぼんやりと映っている。
「わたし、やってみる」
月がきれいな日なら、まだ可能性はゼロ、じゃないから。七海の淡い色素の目をじっと見つめる。「試すだけでいいから」と懇願するようで、上ずっている。口の中からはすっかり水気が失われてしまっている。それを隠すようにぎゅっと口をつぐんで唾を飲み込む。わたしの気合の問題じゃないことはわかっている。何度も式神を呼んでは振られ続けているし、それを辛く思っているのはわたしだ。でも、辛いからと逃げて守られるだけなのはもう嫌だ。
「桐野、頼むね。で、一緒に沖縄行こう!」
肩にあったかい手のひらが乗る。できるできる、と呪文のように、小さな子供に言い聞かすように背中を撫でていく灰原の手に、わたしの緊張も解けていく。呪術師がいう呪文には、すごく効果がありそうだね。言おうか迷って、やっぱりやめた。七海が視線だけでなんだよ、とチクチクと刺してくるけれど、「なんでもないよ」と首をふった。なんだか、恥ずかしかったから。

23.05.28

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