思わず降りた今のが終電で馬鹿だった
陽光が目にささる。いつのまにかベランダの手すりに突っ伏して眠り込んでいたらしい。変な姿勢で寝たから背中は真っ直ぐにしようとすると変な音がしたし、下敷きになっていた腕はびりびりとして何でもかんでも尖ったものに触れている感覚になっている。なにはともあれ、優しくて残酷な夢だった。ひとりぼっちのアパートがいつも以上に寂しく見えてくる。
全部1組ずつのテーブルとイス。キッチンのシンクの後ろには小さな食器棚が鎮座している。曇りガラスからじゃ判別つかないけれど、その奥にはマグカップ、平皿、茶碗、おわん。それから箸。どれも一つずつしかない、すっからかんの食器棚はニスのにおいがキツイ。ここに住みだして早10年ちょっと。いつまでも新品同然のにおいで飽き飽きしている、と誰かに言いたいけど、ここには聞いてくれるような七海も桐野もいないのだ。来るなら二人一緒だったり、お揃いのリングを左手にはめてからきて欲しいものだけど。
1日だって忘れたことがないふたりを脳裏に描く。七海の眉間のシワ。桐野の藍色の目。大好きで世界で一番幸せになってほしい二人を思うと、自然と寂しい気持ちが和らいでいった。いや、世界で一番はうちの妹だけどさ。アスファルトに落ちた木漏れ日は、夢の中より何倍か劣っているから、一瞬目を通すだけで終わった。カーテンをくぐって部屋に帰る。
もしも、僕がどれかひとつの季節を繰り返せるなら。そんな呪いが、まじないが使えたら。僕は、桐野と七海が僕を待ってる秋しか考えられない。待ってないよって君達はいうかもしれないけど、僕が君たちに待ってて欲しいんだ。
でも、そんな僕の呪いのせいで、桐野が泣いていたらどうしようか。七海は心配いらない、と丁重に断られてしまうだろうから心配してないでも。七海に行かない心配と、相まって君が一人で泣いていないか不安で不安で仕方がなくなる。氷に大粒の涙が落ちて、そこからじわじわと溶けていく、そんな感じだ。雨の中でひとりしゃがんでいたらどうしようか。まだレモネードを飲んでるかな。もう祭に行っても迷子にならないでいるといいな。机に持ち物を並べるみたいに、ひとつひとつ不安なことを並べる。けれど、いつも数が片手を超えた時点で、ああそうだった、七海がいるんだよな。そうやって、肩から力が抜ける。
「会いたいなぁ。いま、ふたりとも何をしてるんだろう」
ひとりごちて、目の前の水槽の表面に顔を押し付ける。ひんやりとした感覚がちょうど良かった。その中には、この前、砂浜に打ち上げられていたクラゲが、悠々と真っ青な水の中を泳いでいる。クラゲのために、近くで買った餌をはらはらと蒔いた。白いスカートの裾が広がるようにふわりふわりと動く様子が、やっぱり桐野と重なった。
灰原くん、はいばらくん、はいばら、灰原。
いつだって、そうやって彼女が僕を呼ぶ声が愛おしかった。『いつだって』なんて強調に異を唱える人がいたって、僕は「そうだね」なんて笑ってやらないつもりだ。ずっと、泣くことすらうまくできなかった彼女を知っているのは僕だ。笑うとできるえくぼを指摘したのだって僕だ。今日も昨日もずっと桐野のことを思っているんだから、いつだって、を撤回するつもりはない。雨の音と、小さく丸々桐野の背中。あの日はそれに触れることができなかったけど、今なら、絶対手を伸ばすのにな。まぁ、あいにくと、触るための肉体を持ってないわけだけど。
決して帰れない僕を待つように、そんな風に呪うくせに、僕の本当の望みは君がいつだってひなたで笑ってることなんだから。……それぐらい、楽しそうに僕を呼ぶようになった桐野は、眩しくて仕方がなかったってことだ。黒から金に変わった桐野の髪は、ずっと明けなかった夜が来て、朝の光が立ち込めるような、そんな神聖さがあったんだ。ずっと君を見ていたかったよ。あの世界からずっとそばにいる方法だってあったのかな。
常春からじゃ声は届かないのは百も承知だ。開けっ放しの窓から柔らかな春風が吹き込んだ。ひらひらと丸い花弁がフローリングに散らかった。「あとで片付けないとな」そう、水槽のなかに笑いかけた。
23.0528 再公開