いつか振り返ったときその歪さに気づいて


「……どうしたの、あ!もしかして気分悪いの?気づかなくてごめんね」
手首を掴んでいる僕の指先に、熱がたまっている。白い砂浜に落ちる淡いグレーの影を荒らして、桐野に一歩近寄った。ゆっくり手首をなぞって、桐野の手のひらまでゆっくり伸ばす。手首の青い血管を通過すると、どくりと脈打つのを直で感じた。桐野は、息を止めて僕を見上げている。「ごめん」と、言い訳みたいに口にして桐野の指先をぎゅっと握った。グレーの二つの影が境目なく繋がる。
「手繋ぐのは初めてじゃないよね」
「そうだけどそうじゃないんだよ!こう、こう……さぁ」
「言いたいことはわかるけど……。でも、灰原は前は平気そうな顔してたじゃない、わたし心臓壊れるかと思ってたのに」
痛いところをつかれたなぁ、と笑って、それでも話す気がなくて僕の方に手を引く。そうすると、僕の胸に倒れ込んでくる。キャップのつばがぶつかる、その直前で、桐野は顔を横にして回避して、ぴったりとくっついた。「灰原」掠れた声だった。掠れた声も、はっきりと耳に入るぐらいの距離。縦に10センチメートル。僕の心臓は身体の内側で、爆発直前のカウントダウンのように、どくどくと呻いている。桐野が触れているところから、少しずつ熱が流れ込むように思えた。僕の体温36度の熱と、桐野の平熱35度が合わさって、まるで、ひとつのおっきな心臓にみたいに思えた。ここに七海がいてくれたら、熱に浮かされた僕らの頭に、真水をぶっかけてくれるのにな。

桐野の金色に染まった髪を見た時から、僕はどうにかなってしまいそうだった。黒髪だって日本人形みたいで似合っていたと思う。桐野は、僕のこの例えに眉を曇らせるけど、あれはあれで手入れのされた装飾品じみた気品のようなものがあった。綺麗に切りそろえられた前髪の直下の眼。淀んだ、黒とも藍とも形容しがたい色。真っ暗な洞窟の夜。感情で波打つようになったのはいつだっけ。
「ねえ、灰原。灰原は、なんの季節がすき?」
夜更けの空を埋め尽くす藍色をそのまま切り取ったみたいな眼が、僕を見ていた。意図がつかめなくて、藍色の中に手がかりを探すけどどこにも見つからない。こんな突拍子もない言葉を投げられるのは初めてだったから、僕は、桐野の背中に手を回す。藍色は少しあちらこちらへと視線が揺れ動く。頑として譲らず観察を続ける僕から逃げるように、ぎゅ、と目を瞑った。睫毛の一本一本まで数えられそうだ。
「ちかいちかいちかい」
「アッ、ごめん!!桐野がなんで今季節について聞いたか全然ッわかんなくって!!」
「それはわたしもごめんだけど!!でもほんとにびっくりした心臓おかしくなるかと」
慌てて手を離して、無害だと主張するかのように、両手を上にあげる。万歳のポーズを取る、僕を見上げたままの姿勢で桐野の腰がが砂浜に落ちる。へなへな、という効果音が合う桐野に余計、申し訳なさで頭の中がごちゃごちゃした。ああああ、と単語にならない母音が喉から出るのを止められなかった。うわ、うわ。何やってんだろ、ほんと。七海に何を誤ればいいんだろう!
「ごめん僕も何やってんだろう。ごめんちょっと、頭冷やしてくる!その辺走ってくるから!」
いたたまれなくて、回れ右を試みるものの、前に進めなくて言葉と思考と恥ずかしさがこんがらがる頭がショートしそうになった。振り返れば、真っ赤な顔で僕の上着の裾を引っ張る桐野。藍色の目は、長い睫毛で上半分が隠されている。
「…………いかないで」
ねぇ、七海。僕は君が桐野に向けてる気持ちをわかってるつもりだよ。それに、桐野が七海を特別に思ってるのだって、一目瞭然だ。だって、ほら、染めた髪の色がそう物語っている。七海とならきっと桐野は幸せになれる。そうやって俯瞰できるぐらいに、僕の桐野へ向ける感情は、まったく、別物だったはずなんだよ。
何も言わない僕をじっと見つめる桐野の、手のひらを包み込んだ。「……あっちで頭冷やそっか」妹に重ねていた。同じように呪いが見える、小さな妹と。だから、これは恋なんかじゃないんだって高をくくってた、馬鹿だなぁ。僕の愛するユートピアには七海も桐野も外せない。運命っていつも最低な巡り合わせばかりする。僕の手を支えに、桐野が立ち上がる。会話はなく、ただ砂を踏んで陽炎で覆われた道路に足を下ろす。桐野が靴を履き終えると、僕は空を仰いだ。まっさら、気持ちがいい夏の空。季節は春なのに。僕らに常春がありはしないけど、今は、ちょうど、常夏に立っている。

寂れた自動販売機に、小銭を入れていく。10円を一枚入れるけど、がちゃんとかすった音とともに、返却口に帰ってくる。持ってる小銭は入れた分と突っ返されたこれだけ。いや、まぐれかもしれないし……、と目を細めて10円の横幅とにらめっこする。隣から何事もなかったかのように僕の手元を覗き込んでくる。
「その10円返されたやつ?」
「うん。どうする?もっかいいれてみる?」
「わたしの入れるね。いま結構小銭が多いの」
いいよ、と僕が彼女の動作を止めるよりさきに、小銭を入れるところに銅色を入れられてしまった。ぱっと、すべてのランプが灯る。桐野の肩を掴んで、自動販売機の前に誘導する。高専にも自動販売機はあるけど、いつも使うたびに感動しているので、桐野の背中は見ていてとても楽しい。沖縄で自動販売機っていうのも味気ないよなぁ、と心のどこかでぽつりと思うけど、桐野の楽しそうな横顔と、ひょこひょこ動く背中を見ると、そんな感情は霧散してしまう。そういうものだ。
桐野が髪を耳にかける。ただそれだけの仕草になぜだか心臓が跳ねた。そんな僕に気がつかず、桐野は端から端の飲料を読み上げている。沖縄の熱にやられただけなんて言えないよなぁ、なんとなく桐野に背中を向ける。日陰からみる青空は、いっそのこと毒々しいと感じるほど青かった。目の奥まで余すところなく青く塗り上げられてしまいそうな青。握りっぱなしで、すっかり温くなった10円玉を空にかざしてみる。いくら汚れていようとも光の当て方次第で、ぴかり弾けるように真っ白なと光を生む。破裂直前の爆弾。くるりと指で10円玉を翻す。光は消えて、淡いグレーの陰にさらに濃い黒い影が落ちる。爆発が派手なものと決まったわけじゃない。

「灰原灰原!レモネードってなに?美味しい?」
桐野のボリュームの上がりきった声に、僕は振り返る。桐野も顔だけ僕の方を向けて、満面の笑みで、上の方にあるペットボトルを指差している。華やかな黄色の飲料は、形容できないほどに、桐野にぴったりだった。甘酸っぱいレモネード。朝を注ぐような淡い金髪に僕は微笑んだ。太陽の光に透けて白く光って、綺麗だと思う。心の底から。
「すきだと思うよ」
金髪は海から流れ込んできた風で波打って、僕の前に広がった。その髪に手を伸ばす。柔らかな髪が人差し指に触れた。くるりと毛先を弄ぶけれど、桐野はまったく気づかない。そりゃそうだよなぁ、ひとり口の中でぽつりと零す。まだ君はしらないままで居てね。頰に当たる風は春風にひどく似ていた。常夏と噂に聞く、ここには春が来るのかはわからないけど、いま、僕には桜が見えた気がした。木漏れ日から溢れる陽光。ひらひら丸い花弁が散る。そしてその丸い花弁がくるりと翻って、淡い花弁も白く光る。
「……うわ、甘酸っぱい。でもいいなぁレモネード!」
隣に並んだ桐野がペットボトルを見つめる。ラベルをじっと見つめる横顔に、ちょっといたずらがしたくなって、キャップの鍔を掴んで、ぐるりと半周回させてみる。こっち向いて欲しかったから、こんなことをするなんて、昨日の僕が知ったら驚くと思う。藍色が驚いたようにこっちを見てくれて、「美味しい?」とだけ尋ねた。ぐぐ、と眉根がよる。うわ、七海にそっくり。
「まさかそれだけのために帽子いじったの?」
「さすがに違うよ!好きな季節の話さ、結論が出たから言おうと思って」
「ええ〜、それ今じゃなきゃダメなの……」
「そんな不満そうな顔するけどね、そもそも聞いたのは桐野だよ?責任持ってきいて!」
それでも口を尖らせたままの桐野の手のひらから、ひょいとペットボトルを回収してやる。君には、必ず、僕の回答を聞く権利がある。合わない視線に僕はもったいぶって黄色の飲料を太陽に透かす。
「聞いてくれたら絶対に七海に髪の色の理由、言わないんだけどなぁ」
キャップを緩めて、ぐいと一口飲んでみる。口の中に甘さが広がった。特別な甘さだと思うのは、僕だけじゃない。ここに春がくるかに思いをはせるよりも、帰ったらくる時期に来る春の話をしようか。帰れない季節は、僕らの足元に落ちた淡いグレーの影すら覆せっこないんだから。一口飲んで、薄く口を開けている桐野に差し出す。両手でペットボトルを握ってこちらを見上げる桐野は、じわじわと頰が赤くなっていく。ごめんね、七海。桐野も、意地悪してごめんね。
「絶対?」
「絶対!!」
「ぜったい?」
「ぜぇっっっっっったい!」
僕のおうむ返しの返答に、少し不信感を持ったまま、それでも素直は桐野は「じゃあ聞く」と頷く。手のひらにそのままペットボトルを返却する。
「帰ったら桜を見に行こう!」
赤い頰が桜色になる。「答えになってない!」桐野の手のひらが僕の方に伸びて、手のひらを掴んだ。僕の方から繋ぐことはあれど、桐野から触れてくることはなかったから、どう返せばいいかわからなくなった。藍色はいたずらっ子みたいに目を細めて、僕の手を引いて、砂浜の方へと移動させる。靴は履いたまま、全部がやっと納得できるカタチに嵌る。磨きがかかった藍色。新しい朝みたいな金色。作り物の朝だろうと、朝は朝に違いない。
「春だ、春だね!なんというか、桐野って春っぽい!!」
そっか、そうなんだな。口が緩むのが、誰に言われるまでもなくわかった。桐野、あのさ。
「もう、灰原……!なにそれ」
桐野のその顔が見たかった!

23.0528 再公開

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