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嵐山准の背中には傷がある。ちょうど肩甲骨のあたりに。羽をむしり取られた時にできて、今も膿んだままの傷がある。嵐山准が笑う。若い木々のような色をした目を細める。
ガラクタから目を離して、嵐山准は私に手を差し出す。午後二時の太陽は南中していた。だから嵐山准は背中に太陽を背負った。傷の癒えない背中を太陽に晒して、何も知らない嵐山准、その人だけが私のことを助けた。笑みを崩さないまま眉だけを下げ「大丈夫か?」と尋ねる。嵐山准に答えるより先に、背後の太陽は後光になってはあげないんだ、とだけ思った。人間扱いされないなら、いっそのこと神様にでもしてやればいいのに。
応答がないことを気にして、もう一度嵐山准は確認を取る。今度は手をぐいと持ち上げられ、顔を覗き込み「本当に大丈夫か?もしかしてネイバーを見るのは四年前のあの時ぶりか?」そう確認を取る。
「……あ、はい。そうです。だい、じょうぶです」
早く解放して欲しい。それから、嵐山准の不純物のない緑色が怖いと思った。これは、安否確認を義務と処理する目だ。
「すみません。大丈夫です」
うまく繋がらなかった言葉を繋ぎ合わせて、頭を下げる。頭上からは「こういう時はすみませんじゃなくて、ありがとうでいいんだ」という声が降る。そりゃボーダー隊員にはすみませんじゃなくてありがとうと言ってもらう覚悟があるだろう。でも、私にはほんと一粒だって存在しないから。
「すみません」
土だらけになったスニーカーのつま先だけを見ていた。意味の乗らないすみませんを二回繰り返す。沈黙が落ちるより先に「嵐山隊長!」という呼びかけに反応して、嵐山准は背中を向ける。「どうか気をつけてな!」優秀なヒーローは、そう言い残した。
背中には傷がある。
私たちは後ろめたいから、誰にも背中なんて見せられない。けれど、嵐山准という人私たちは違うのだ。
外見は同じでも、内部構造は全て違う。私たちが持たない内臓をもち、背骨にはきっと羽の退化した跡がある。
あの身に降りかかる災いはいかなることも痛くもなくて、背中を見られる恐怖とは無縁で、嵐山准のもつ緑は土に塗れることなど未来永劫ない。
でも、どうしてだろう。
ずっと冷え切っていた手が温いのは。
あの緑は色彩の中の新緑でしかなかったのは。どうして?彼が人間に見えたのは、どうしてなんだろう。
弾かれたように嵐山准はこちらを振り返った。まるで答えを見つけかのように。心臓のある場所だけ温度が下がる。嵐山准は走ってきて、私に紙切れを押し付ける。
「ここから最寄りのシェルターの地図です。案内できず申し訳ありませんが、どうか安全な場所に避難してください」
嵐山准はそうやって私に緑色の目をにっこりと細める。線になる。コンパスで弧を描くのと同じで。
ボーダーのポスターと同じ顔は、一瞬、初めて見た少年らしいはにかみに変わってから、沈黙した。黙秘にも近い何かを示してから、今度こそ嵐山准はじゃあ、と私から距離を置いた。
≠
初めて見た時、目があったと思った。
テレビの液晶画面越しじゃ目なんて合うわけがないのに。
「最後まで戦えると思います」
断言、宣言。
果たしてこれはどちらなのだろうか。同じ歳の中学三年生。同じ街に生まれて、同じ年だけ育った。
知らない少年は意気揚々と答える。映画みたいだと思った。もっと言えば、子役がバラエティー番組に出たときに感じる大人の紛い物らしさ、のような。
「あらしやま、じゅん」
ピカピカで傷ひとつ、色の褪せたところひとつとない無垢な茶碗にご飯をよそう手が止まる。視線が泳ぐ。テレビから離れ、ぐるりと部屋を一周。
かろうじて家だった場所から見つけた箸。今日購入した折りたたみローテーブル。レンジは温め完了の合図を鳴らす。
「うわ、姉ちゃん何やってんの」
呆れた弟の声でやっと我に返る。
「ごめんごめん。テレビの、あの子すごいこと言うな〜って見てた」
「確かに。すごいよな、ああいうの本当にあるんだ」
ああいうの。こそあど言葉で示された先。長方形にくり抜かれて、『アラシヤマジュン』が緑色の目をにっこりと細める。線になる。コンパスで弧を描く。
人形みたい。
理屈をどれだけ並べでも、彼のことを怖いと思ってしまった。
結果からいってしまえば、彼を理解できなかったのは私だけらしかった。父も母も、彼を信仰した。
「自分の子供たちと同世代の子がこんな頑張ってるなんてびっくりするわ」
「こういう非常事態で若い世代が頑張るのは決して悪く言われることではないだろうな。きっとあれこれいう大人も多いだろうが、折れないでほしいな」
薄いカーテンで仕切った向こうで、両親がひそやかに祈りを捧げている。頑張っている。頑張ってほしい。
家や教室を満たしたあの感情を私は理解できない。
同じ年の、違う学校の、容姿が整った男の子が、この三門の街を守ることを大人たちの前で宣言した。とても立派なことだと思う。でも、それが正しいのかわからない。私達は、彼に守られるだけでいいの?
中継の中でも少年は知らない大人に詰め寄られていたのに、彼らを守る言葉が見えない。背中を押す声、腕を引く声。あの中に誰も恐怖を訴える声はない。
つまりはそういうことだ。
仲が良かったあの子が、私の耳にひそひそと秘密を囁く。
「ねえ、ボーダーの子カッコ良かったよね。ホラ、昨日テレビに出てたさ。あの子、一中なんだって。結構近所じゃない?」
上擦った声だった。教室全体を包み込む緊張の解けた空気に動揺する。困惑を顔に出してしたかもしれないと私は彼女の表情を盗み見た。彼女はうっとりと明後日を眺め、息を吐く。それは、感嘆?聞かなくてもわかってしまった。少しだけ照れたような目と、一般化しようとする言葉と、確かにその言葉に込められた親愛に、唇を噛む。昨日見ただけじゃない。
「私はそういうのあんまり興味ないや」
「えー、絶対好きだよ。……あ、よく考えたらさ、リョウくんと顔似てるじゃん!」
鞄から荷物を取り出す手が硬直した。
「リョウ……ってアイドルの?」
「そうそう……っていうかそれ以外にいないで小説私たちの間で!……まあ、たしかに今はアレかもしれないけど、きっと好きになれるよ。リョウくんすきじゃん?」
違うよ。言葉が出る代わりに、顔が熱くなった。きっと喉まで真っ赤になっている。
ああ、そうか。そうなんだ。スクールバッグにつけたリストバンドを撫でる。生徒手帳に挟んだ写真のことを思い出す。
加工して、思い出にして、勝手に理想を押し付ける。アイドルは偶像だ。偶像は、人間じゃない。アイドルだって人間だって言いながら私たちはきっと本当にわかっていないんだ。変形処置をした人工的なあの人たちしか知らない。
そうか、これからもずっとこのラベルを貼る人生は続く。
「そうだね、きっといつか」
私たちはどこまでも身勝手だ。結局、私だってそこから抜けることはない。
背中についた無数の傷を無かったことにして、私たちは他人の背中にラベルを貼っている。貼って、貼って、貼り続ける。そして、信じるものを何も持たない。
じゃあねと交差点で分かれて、コンビニで弁当を買って、走って、仮設住宅の鍵を開ける。弟はカップラーメンを啜っていたところで、私の顔を見て顔を引き攣らせた。
「姉ちゃん、顔やばいよ」
「……別になんでもいいでしょ。着替える。ってかアンタもカップ麺そろそろやめなよ。もう五日目でしょそれ」
「いやあそれがさ、全然これ以外食えないの」
中学のジャージを着て一丁前に胡座を組む弟の背後で制服を脱ぐ。ずるずると麺を啜ってから、私が買ってきたコンビニの袋をのぞく。
「からあげとカレー、それからオムライスとか……マジでなんの捻りもねえじゃん……」
「食べれそうなら持ってていいよ」
返事はなかった。
「オレさ、自分のこと結構タフだと思ってたよ。だけど、秀次……あー、覚えてる?小学校の時までそこそこ遊んでたアイツ」
「覚えてるよ。お姉さんと仲良しだった子でしょ」
「そーそ、その秀次。知ってた?アイツ今じゃボーダーだよ」
弟のつむじを眺める。何も映っていない小さな液晶を見て、呟く。黒い画面に私たち姉弟が映っている。夜と同じ色だ。
「そういうのだよ、タフっていうか、次元が違うやつって」
秀次くんのことを私はよく知らない。
でも、わかる気がするから口をつぐむ。今まで住んでいた家では生活できないと言われた。たったそれだけでうちはぐちゃぐちゃになった。
おばあちゃんが行方不明だとか、お父さんの会社が忙しいとか、お母さんは親戚とてんやわんや。「心配いらないよ。私たちは大丈夫」それ以外になんて言えばよかったのだろう。私たちはできる限り、心配いらないしっかりした子供でいる以外の最善を見つけられない。
「すごいね」
「……すごいのかなあ、本当に」
「タフって自分で言ったんでしょうが」
「そういうんじゃなくてさ、何?なんか、こう、オレらとは違うじゃん根本的に……。あーもうわかんね、姉ちゃんが言ってよ」
「ばかいわないでよ」
足がダンボールにぶつかる。ふたはしまっていなかったから、ぶつかった勢いをそのまま乗せて中身をぶちまけた。
なにこれ。言葉にならなかった。弟も振り返ることなく、ラーメンを啜る。
「ねえここにあるダンボールって誰が持ってきたの。お母さん?」
「知らない」
「……そう。ちょっと出かけてくる」
22.12.27