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立ち入り禁止の看板しかないことをいいことに、警戒区域に入った。ダンボールを抱えてる手はずっと冷えていた。寒くて震えていた。おかしい、ずっと寒い。
ライターをカチカチと鳴らす。いつまでも火が灯らないから焦った。
どうしよう、ボーダーの人が来たら。せまくて暗い室内では手元がおぼつかなくて、無闇矢鱈に焦った。汗で親指が滑った。
カチ、といういう音を引き裂くようにガラスが割れる。月明かりを浴びて、破片がきらきらと舞う。破片を浴びたまま、その人は私に近寄る。
「はー……あっぶな、ギリギリ間に合った。ちょっとさ〜君さ、なにもそんなとこで……自殺を試みなくても……」
「自殺?」
「あれ……違う?」
「違いますけど。燃やそうと思っただけで」
「……何を?」
空みたい。その人は空みたいな透き通った青だった。
もし、もしもこの前見たアラシヤマジュンの目がなんの汚れも知らない新緑だとするならば、きっとこの人の目は空だ。嘘をついても意味はない、と告解を促す色。
「このダンボールの中身です。もう、いらないので……でもただ捨てるのには怖いから」
彼が一歩近づく。シルエットがちゃんと見えてから、目を見はった。
「じゃあさ、そのダンボール持ってついてきなよ。燃やすにしても捨てるにしても、ここは良くないでしょ」
動けない私の右手を、空いた手でダンボールをとって気遣うように笑う。大丈夫。彼の口がそう動くのを眺めてながら、首を傾げる。一体、何が大丈夫なんだろう。要領を得ない私なんて気にせず彼がガラスの破片を足で避ける。
「あと、おれボーダーだから。安全だよ」
「……ああ、ネイバー」
「そ。まあでも今日は静かなもんだと思うけどね。そういう意味で言えば君はすごく運がいいよ」
十五年見ていた街は、もう知らない夜になっていた。知らない男の子が私の手首を掴んで歩く。崩れた家、灯らない街灯、ひび割れた電柱、垂れ下がった電線。
「ボーダーの人って、もっと大人だと思ってました。この前は、若い子が初めて入ったせいで記者会見やったんだとばかり」
「ん〜、まあ、そうだね。こういっちゃアレだけど、子どもの方が都合がいいんだよ」
彼の表情は正直そのもので、あちゃ〜という顔を微塵も隠していなかった。都合がいい。ボーダーの情報はどれも都市伝説のようなものばかりだから。秘密結社だの、ヒーロー集団だの、好きなように解釈する。きっとそれも含めて都合がいいのだろう。
「気になるなら、入る?」
「冗談……っていうかリップサービスはいらないんで。ファンサするような組織ではないんだろうなって思いますし」
「君は結構向いてると思うよ。少なくとも、そういう選択肢自体は捨てなくていいんじゃないの」
「……私は、他人に背中を見せられるほど高潔でも、こんな中で立っていられるほどタフでもありませんから」
「大丈夫、大丈夫、嵐山だけだよそんなの。みんな別に聖人じゃない。ただ居ても立っても居られない人とか、悲しみより優先することがある人ばっか」
歩くたびにカタカタと箱の中が揺れる。大きな箱の割に中身が空欄だということを主張するかのようにカラカラと音が鳴った。
『アラシヤマ』という言葉の上書きを望むみたいに私は彼に発言する。
結局こうやって無視されるんだから、むやみやたらと人名を出さなきゃいいのに。余裕そうな言葉選びと、少年らしい声のハイライトが苦しかった。
この人も頑張っている人なのだ、私なんかとは違って。
「手、離してもらっていいですか」
みんな、いつだって拒絶が下手だ。そして、この人はあまりに優しい。青が私を見た。透明感を拒むように私が映っている。ひどい顔だった。怖い顔でもあった。青い目はくしゃりと笑う。
「そっか、ごめんね」
彼の手が離れる様を眺めながら私は祈った。神様でもいいし、目の前の彼にだっていい。叶えてくれるなら誰でも。

神様。神様、どうかいるのばら聞いてください。私がいつか、生まれ変われるなら。どうか、私も優しい人にしてください。


ここでいいか、と彼が呟く。開けた空き地。彼の上着は風に靡いている。月明かりで始めてその色が青だと気がついた。小さな空が私に手を差し出している。さっきをそのまま再現するように。目と手を見比べてから、左手に握りしめたままのライターを渡す。指先から離れる。無くなった空間にひゅうと空気が沁みた。過呼吸の音だ。
「ほんとうに捨てていいの?大切なものでしょ、これ」
「私もそうだと思ってました」
「おれこういうのは詳しくないからさ、言ってもらわないと」
「こういう時必要なものは、これではありませんでした」
「一瞬の気の迷いってあるよ。これはともかく形見とかでそんな高潔さは意味ないから、慣れておいた方が……」
「たとえ、悲しんだとしても、後悔したとしても……これでいいんです」
小さな声でそう、と答えて彼はライターで火を灯した。オレンジが揺れるたび、下に伸びた私たちの影も揺れた。足元が照らされる。煤けた布が地面に落ちている。記憶が蘇る。ああ、そうか……ここは燃えていたあの子の家か。
彼は私の返答を受けて、ライターを丸ごとダンボールの中へ投げる。紙片が黒く染まっていく。風が吹く。煽られ、揺れつつ火が大きくなる。
「……アイドルって、偶像って意味なんですよ」
「ごめん突然何の話?」
「私はアイドルを人間だと思ってるつもりだったし、だから好きだと思ってたけど、多分本当は人間扱いなんかしてなかった。綺麗に加工された部分しか知らなかったんです」
「それが嵐山となんか関係ある?」
なかったことにならなかった言葉を、噛んで飲み込む。
「……同じなんですよ。私たちにとってアラシヤマジュンという人はただの固有名詞で、ヒーローで、アイドルになるんです。私たちとは同じ姿形をした内部構造の異なる生き物として認識します。……きっと彼らは特別だって」
彼は痛いところを突かれた大人と同じ顔をする。それでも私は手のひらに握りしめた石を投げることしかできない。
痛いって言ってくれれば、私だってやめられるのに。
「アラシヤマジュンが、ヒーロー……偶像になるってことは、多かれ少なかれ他のボーダー隊員だってそうなると思いませんか?」
少なくとも。
声はたわんで風に流された。一度咳払いをして続ける。
「少なくとも、私はアラシヤマジュンのことをそう捉えるし、ボーダー隊員はそうだろうとみなします」
「それは嵐山とかおれは、石を投げられても立っていて、理由はこれぽっちも痛くないから……ってこと?」
「あなたたちはいつか、100年とかずっとその先に、英雄として歴史に存在するでしょうね。でもその歴史を作るのはあなたたちボーダーじゃない。ボーダーを見ている第三者と、ボーダーという過去の遺物に思いを馳せるであろう未来の歴史家です」
あなたじゃない。決してあなたたちではない。傷しか持たないわたしたちは、あなたたちの中身を想像して、都合よく信仰するだろう。きっと来年にはそうなっている。神様のように天使のように。そこには、ただの教父が信仰され、像になるのとなんら違いはない。
「信仰がない人を取り込むための、理想的なボーダー隊員という像でしょう。あの人は」
今日、この街に置いて物語というのは極めて現実味を持つ嘘だ。でなければ社会で運用できない。物語が不完全ならば、像を作ればいい。聖像だ。あなたの求めるものはこの人が持つと、偶像崇拝でもなんでも押し付けられればそっちの勝ちだ。
だから、私はあなたたちに屈したくない。ほんとうに苦しい時に欲しいものはきっとそれじゃないから。
「ありがとね」
右手を硬く握る。爪が手のひらに食い込んで痛かった。
「……私、結構あなたたちに酷い言葉を浴びせてると思うんですけど」
「いや、組織の在り方に疑問を持つ人もいるっていうことが知れてよかったから。初めてあった人との縁をおれは大事にしようと思っててさ」
「大人みたいなこと言いますけど、いくつなんですか?」
燃え盛る炎から視線をそらして、へらりと笑う。人好きのする顔だった。
「えーそんなことないと思うけどな〜。おれ、いくつにみえる?」
「見た感じは同い年ぐらいにしかみえない、です」
「やっぱり?」
それきり彼は何も言わなかった。近くにあったバケツで水を浴びせ、終わりだった。
「ひとつ言っておきたいんだけどさ。……おれたちは、英雄と思われようが偽善者だって叩かれようが、この街を必ず助けるよ。それだけは誓ってもいい」
「……気が変わるかもしれないじゃないですか」
「少なくとも、おれや嵐山はそれに殉するよ。そうじゃなきゃ、おれの人生には意味がないんだ」
私の足は硬直する。前だけを見ている彼の足は一定の歩幅で三歩進んだ。
このひとの言葉は誠実だった。怖くはない。でも、気の毒だと思う。
頑張っている人特有の空気の匂いがする。私の肺にある細かい傷を刺激するもの。群れの中で唯一色の違う魚のような寂しさ。
私たち、逆立ちしたって、ああはなれないね。なれないんじゃなくて、なりたくないのかもしれないけれど。青い目のその人の背中を眺めながら弟に同情した、心底、これ以上ないってくらいに。
「じゃ、おれはここまでにするよ。……四月、またどっかで会えるかもね」
私にはこの人が何を見ているのか理解できないのだ。理解できないものをそのつもりになる純情さすら持ち合わせていなかった。ごめんなさい。その言葉すら出ない。ご、の音がゆっくりと気道を通って胃に落ちる。


私は薄情だ。生まれ育った町が粉々になって初めて、自分に必要じゃないものが分かる程度には。それを否定する術などない。わかってる。
でも、本当にあの人たちが、アラシヤマジュンが、薄情じゃない証拠なんてどこにもないじゃないか。
アラシヤマジュンは私たちが三門市民だから守るだけ。そこになんの情が生まれるのだろう。どうすれば信じられるの?別に特別視されるわけじゃない。有象無象のうちの、ひとり。
皺のよった紙を開く。緊急で渡したという体だったが、ボールペンで描かれた地図は見やすかった。それに避難シェルターという文字だけじゃなくて、がんばれ!という文字さえ記されていた。十分すぎる善意。私たちが想像しうる限りの嵐山准らしさ。むせ返りそうになった。これを書いたのが嵐山准なのかそうではないのかを判断する手段を持ってはいないけれど。

22.12.27