致死量の林檎飴

ファイノンは両手で己の身体をだき、小さく縮こまった。バレてはいけない。気づかれてはいけない。背後で起こっている状況にきつく目を閉じた。
背後では、小さなソファーの中で男女が抱き合って眠っている。いや、男女と形容するには白々しいとファイノンは音もなく左右に頭を振った。____アナクサゴラス。かの師匠が女性を抱きしめてたまま、熟睡しているのだ。
「先生、アナイクス先生……ん、ねえ、起きてるでしょ……?」
甘えたような女の問いかけにソファーが軋む音が返ってくる。
「……私はまだ寝ていますよ、エフィメリア」
普段、教室によく通るアナイクスの声は少しくぐもっていた。
エフィメリア。ファイノンはその名前を口の中でだけ唱え、さらになれた呼び名に整える。エフィーさん。彼女はオクヘイマのバルネア図書の司書にして、樹庭のオンパロス地理学の講師だった。そして、彼女は知種学派の学者でもある。
つまりアナイクスの弟子。言い換えればファイノンたちの姉弟子と言えるだろう。
よりによってアナイクスの相手が、ファイノンもよく知る人だったのは不幸中の幸いだろうか。それとも、さらなる悲劇なのか。混乱するファイノンの思考では判断できそうにない。
ファイノンの混乱など知らないアナイクスは、くすぐったそう腰を捻るエフィメリアの身体に脚を割り込ませ仰向けに固定すると、右手でエフィメリアの胸の形をなぞる。広がった胸を寄せ集め、谷間を作って遊ぶ。
「あ、先生……やだ」
「……嫌? あなたは胸を触られるのが好きなのに?」
少し眠たげな掠れた声でアナイクスは笑った。
「ここを私に撫でられるのが好きだと、聞かせて貰った覚えがありますが……違うのですか?」
アナイクスは、ここ、と衣服越しに強調するように人差し指で胸の先端があるところを優しく触った。
「ち、がわないけど……」
「ならいいじゃないですか。最近のあなたは論文執筆に私の雑務の手伝い、講義の準備、卒業年次の生徒の指導__私も鬼ではありませんから、頑張っている可愛い弟子にご褒美をあげたいのですよ」
そうエフィメリアに囁くと、アナイクスは《エフィメリアが好きなところ》を触り続ける。衣擦れの音とエフィメリアの喘ぎ声で否応なしに想像させるその景色をファイノンは振り払おうと必死だった。これまでただの事実としてみていたものにこれまでと真反対の注釈がつけられていく。
例えば、アグライアと並んでも遜色ないエフィメリアの乳房だとか、アナイクスの吐息を含んだ寝起きの低い声だとか。アナイクスがエフィメリアのどこをどう撫でているかなどファイノンは考えたくもなかった。答え合わせのように、ふたたびソファーが軋んだ。
ファイノンは気を紛らわせるべく、必死の気持ちで記憶を手繰るが、エフィメリアの艶めいた声とアナイクスの掠れた声が自然とことの始まりを再生した。
ああ、ケファレ、サーシス、モネータ____!どうして、こんなことになっているのだろうか?
神に縋ってみても答えなどあるわけもなく、ファイノンはただひたすらに過去を後悔することしかできなかった。


その刻、ファイノンは悩んでいた。扉の前で行ったり来たりを繰り返す彼の足音ばかりが、耳に痛むほど静まり返った研究室前にこだましていた。
____ファイノン。私は以前にも必要な申請はそれだけか、ということをあなたに尋ねましたが。
細い眉を鋭く吊り上げ、氷のような声でファイノンを突き刺し詰問するアナイクスは、隻眼とは思えない迫力がある。普段の授業でもとんでもないが、あらゆる書類が集められ賢人としてそれらをさばく時期のアナイクスに言えばどうなるか。衣服に鎧まで着込んでいるファイノンでさえも、ゾッとして身体を震わせた。アナイクスから、数多の雑用を押し付けられることに決まっている。まず、アナイクスの機嫌がよかったためしなどないのだから。
数を数えても扉の向こうから人の気配はしない。上手くいけばアナイクスは不在かもしれないし、朝であればまず出勤してくるだろう教員助手のヒアンシーに頼れるかもしれない。
____勇気を出せ!エリュシオンのファイノン!
ファイノンは丹田に力を込め、自身の頬を両手で軽く叩いた。それから、いつもの通りの声を意識して研究室の扉を開けた。
「アナイクス先生、いるのかい?」
声は反響せず、研究室の中に消えていった。
本棚を通り抜け、アナイクスがいつも座っている席をのぞいた。アナイクスの席は無人で、書類は中途半端なまま筆記用具が放り投げられていた。こういう時のアナイクスは途中で他のことに気を取られてしまい、帰ってこない。授業を放り出す時と同じだ。これはラッキーだ。これなら書類だけおいて戻ろうかな、とファイノンが机に書類をおいたタイミングで、チリ、と微かな音がなった。
思わず音のなった方を見ると、ソファーの背もたれにアナイクスの外套が引っかかっているのが見えた。赤い飾りは青い永夜の中でも確かな存在感を放っている。
「なんだいるじゃないか、無視なんて酷いよ、アナイクス先生……?」
ファイノンは苦笑しながらソファーの方に周り、師の顔をのぞいた。そして気配のなさに応じて、当然。アナイクスは研究室のソファーの上で眠っていた。
「眠っているのかい?」
確かめる声が当然ながら小さくなった。
自身の外套を抱きしめ、それに顔を寄せて眠っているアナイクスは、普段の慇懃無礼さは消え去りあどけない顔をしていた。いつも鋭い傾斜を描く細い眉はなだらかで、厳しい言葉を吐く口は寝息を立てている。眠っているアナイクスはこうしてみるとその美形さが際立つ。好奇心。その時のファイノンの足を動かしたのはそれだけだった。起こさないように、足音を殺しながらアナイクスに近づく。息を殺す必要もないのに、自然と呼吸も浅くなっていた。
そして、ちょうどファインが覗き込んだ時、アナイクスが狭いソファーの上で身体を捻らせた。外套が跳ね飛ばされ床に落ちる。飾りが床にぶつかる音でアナイクスが起きないか一瞬身構え、ソファーに背中を向けたまま耳を側立てる。聞こえてくるのは規則だしいい寝息だけだった。
外套を拾い上げると、かすかな体温と香料の匂いが指先に残った。アナイクスとは少しに合わないような甘い、花の匂いがした気がした。
____にしても、アナイクス先生は手癖が酷いんだな。いくら眠っているとはいえ、さっきまで大事に抱えていたものを次はほっぽり出すなんて。
外套をかけ直そうとした時、アナイクスが何かを抱きしめていることに気がついた。狭いソファーの中でアナイクスがみじろき、抱えている何かがが小さく唸った。ファイノンの青い双眸は焦点が合わず目が霞んでいく。それは人間で、いや何かではなく、女性で。紫がかった黒髪の女性はアナイクスに押されてソファーの壁際に収まり、軽くみじろく。その瞬間、髪が横顔から落ちた。そして現れた顔は、よく知っている顔だった。いつも教壇の上で毅然と話すひと、バルネア図書館でオクヘイマの陽光を浴びながら本を読むひと、時々実験と称して学生の前で錬金術を行って教室を破壊するひと。ファイノンの脳裏に無数の彼女の姿が映った。アナイクスが『彼女』をきつく抱きしめ、そのまま彼女の胸に顔を埋めた。ファイノンは一歩後ずさり、腰をテーブルの角に打った。ファイノンはぎゅうっと締め付け悲鳴をあげる心臓のあたりを手で抑える。
「……エフィーさん?!」
どうしてここに?!叫びそうになりながら、ファイノンは急いで思考を整理する。
エフィメリアだって知種学派の学者のひとりなのだから、彼女がアナイクスと共に研究室で力尽きて眠っていてもおかしくはない。おかしくはないが____こんなの、恋人にしか許されない距離じゃないか。
「ん……、先生……」
エフィメリアがアナイクスを呼ぶ甘ったるい声が聞こえた瞬間、ファイノンは動けなくなった。アナイクスはさらにエフィメリアを抱き寄せ、その胸元に鼻先を埋める。アナイクスの動きに反応してエフィメリアの白い手がアナイクスの髪を撫でる。幼い子供にやるように、優しい手つきだった。それをみた瞬間、腰が抜けてソファーの裏にしゃがみ込んでしまった。

それが一番悪かった。そこからずっと師匠と姉弟子の睦言を聞かされているのだから、判断を間違えたとしか言いようがない。
ファイノンは床の木目を数え始める。背後には決して意識を向けてなるものかと固く誓って。そうしてファイノンが後悔し身を縮めている間にも、アナイクスは慣れた手つきでエフィメリアの胸元をまさぐり、《エフィメリアが好きなところ》を触り続けている。両手で胸を寄せ集めればたっぷりとした胸が衣服から溢れそうだった。弾力を楽しむように揺らしたり、手のひらで包んで撫でたり、引っ掻いたり、撫でたり、つまんだり、アナイクスはエフィメリアの胸で遊んでいた。
「アナイクス先生、やだ……」
「さっきからずっと嫌だ嫌だと言っていますが、何が嫌なんですか?」
「今するのはやだ、あ。全部、終わってない……! わ、たしは講義も!論文もっ、おわんなくて怒るの先生なのに、っ!」
涙声になったエフィメリアにアナイクスはようやく胸をいじめる手を止めた。数秒考えるように、瞬きをしてから、エフィメリアの顔にかかる髪を払う。そして、耳に口付けをひとつ落とした。
「そうですね……あなたの授業を邪魔するのは本意ではありませんし、論文を仕上げてもらわないと困ります。では、こうしましょう。この場では最後まではしません。その代わり、ひとつ条件があります。あなたの講義は明晰の刻からでしょう? 今はまだ隠匿の刻で、門の刻までまだ少しありますから……もう少しだけ……このまま寝かせてください……」声はだんだん小さくなり、その先は聞こえなくなった。
「先生……? 寝ちゃったんですか?」
エフィメリアがそっとアナイクスに尋ねる。そのまま寝息が聞こえてきて、ファイノンはそっとソファー越しに彼らを覗き見た。____眠っている。ふたりの寝顔を確認するとその場に崩れ落ちた。三秒ほど放心した後そそくさと立ち上がった。
もう、研究室に満ちていた甘い気配に、もうこれ以上耐えられなかった。

| index | next