やがて月を実らせましょう

永夜の青い光を遮るべくカーテンを閉め切った講義室の教壇の上に、外套をきた女が立つ。そして、星空を散りばめたような金粉を含む青い石を床に描いた赤い陣の中に落とすと、世界は深海に染まった。天井に波のゆらめきが映し出され、壁には青黒い水の色が光り、泡がどこかから湧いていた。しかし、全てが虚構。
「ここは沿岸部の都市国家、アリスティアの海に入った時のわたしの記憶を元に、錬金術を使って再現したもの。本当に海を作れればよかったんですが、それだとみなさん呼吸ができないはずなので、不完全な再現でよかったのかもしれませんね。」
紫がかった黒髪を揺らしながら教員は壇上からおりると、不完全という言葉に微笑んだ。彼女は周囲の海を見廻し小さく歓談する生徒たちに一歩ずつ近寄る。
普段であれば、ファイノンはオクヘイマ地理学を楽しみにしている。この授業はなんたってすごい。担当する教員が実際に見てきた景色を錬金術を使って再現してくれるのだから。スティコシアの海は海鳴りさえ聞こえてきたし、パルフォスの黄金の宴にみちるあの活気と祭りの匂いまで味わえた。
現在だってファイノンの目の前に広がる深海は美しかった。浮かんでいる木片や海底の砂。手を伸ばしてみるがそれは所詮再現された記憶。触れることは叶わない。しかしこんなに好奇心をくすぐるものもない!しかし、いまは話が別だ。
壇上に立つその人を直視することもできない。ひとつ幸いなことがあるとするなら、彼女の声がいつも通りの凛とした聞きやすい落ち着いた女性の声だったことだ。
「今日は学期末最後の授業ですから、今日の発言や出席については加味しません。最低限私語は慎んで欲しいけれど、今日に関しては減点対象には致しません。その代わり、わたしも個人的な考えに基づく話をします。良いでしょうか?」
「それはエフィーたんが論文の作成に詰まっているってことですか?」
静かで神秘的な海の中で、ヒアンシーがこの担当教員である彼女、エフィメリアにたずねた。
軽やかに旅の話をする自立した女性だとしか考えられない声色で、ファイノンが先ほど聞いた甘えた少女のような声色は夢だったのではないかと思えてくる。
「……ヒアンシーの言う通りだけど、それはここにいる学生とわたしの秘密にしてくれる? アナイクス先生に知られると怒られるから」
エフィメリアはヒアンシーのその言葉を否定せず、笑いながら肯定した。背筋を伸ばし、仕切り直しとばかりに柏手を打ち、外套をはためかせ学生に向き直った。
「今回はアリスティアの伝承についてお話しましょう。みなさんも聞いたことがあると思いますが、オンパロスには次のようなファジェイナの伝承があります。せっかくなのでここの海に投影してみましょうか」
エフィメリアがそういうと、そのまま壁に小さな絵が映った。
黄金紀、津波に苦しんでいた海辺の集落は大きな堤防を造った。しかし、ファジェイナはこの堤防を壊してしまった。
その後、ファジェイナはクジラの姿で彼らの前に現れ、彼らとファジェイナはある賭けをすることになります。賭けの内容は、7日以内に彼らの代表、族長が海の向こう側にある小島に渡る。たどり着けば、もう彼らの平和を乱すようなことはしない。さらにファジェイナの宝物を授ける。しかし失敗すれば、集落は永遠に海に沈むことになる。
「結論から言えば、アリスティアに伝わる寓話では、族長は海を渡り切ることができます。荒波に負けない筏を作ったので……それは誰から聞いたのか。それがここの本題ですね。それは、ファジェイナ、勝負相手から授かった」
言い切るエフィメリアに周囲がざわついた。アリスティアは小さい都市国家で、それを把握している学生はほとんど存在しない。そしてファイノンの一列前に座る学生が手を上げた。
「あの……一般的な伝説ではいかだの作り方を授けたのはエーグルやジョーリアなのではありませんか?」
「質問をありがとう。アリスティアのこの伝承に限って言えば、最初から最後までファジェイナしか登場しないの。言い換えると、アリスティアの伝説は、ファジェイナから恵みも災厄ももたらされる話」
質問した学生は「そんなことあり得るのでしょうか」と小さくこぼした。エフィメリアはそれを見逃さず、次の石を陣の上に落とした。今度は深海から石造りの廃墟に移り変わる。冷たい空気が肺の中に満ちるのを感じた。
「アリスティアに行った時、漁師の魂の記憶を元に一月ほど、生活をしたことがあります。結論からいうと、大変だったね。クジラをファジェイナだと思った理由も痛いくらいわかる。わたしは小魚でさえとっても嬉しかったから」
エフィメリアはそう語りながら教壇の上に戻った。取り巻く景色が変わったことで学生たちは浮き足立ったように周囲を見廻し、小さく感想を囁きあっている。
「しかし、ジョーリアとエーグルが手助けをした、という伝承が多くを閉めることも事実です。なぜだと思いますか、答えられる人は?」
教員からの問いかけにざわめきはさらに大きくなった。エフィメリアの師であるアナイクスはこのような状況を見たら大きく叫ぶだろう。自分が整えた舞台を荒らされることになるのだから、それは至極当然だった。これに反してエフィメリアは黙って学生の顔を眺めていた。
「では、指名しましょうか。エリュシオンのファイノン、あなたの意見を聞かせてくれる?」
「え……!」教室にいる学生の視線が一斉にファイノンに注がれた。
「わたしはあなたの意見が結構好きなの。斬新というか……ふふ、面白い感性をしていると思うし、何か案をくれない?」
さっきのさっきで顔をみていると、否応なしに先ほどの光景が過ぎる。視線がエフィメリアの胸元に向かう。アナイクス先生に触られると好きなところ__。アナイクスの口ぶりを見るにあれが初めてではない。まるで全身を知り尽くしたかのような言動を思い出し、ファイノンは頭が真っ白になった。
「ファイノン?」
かぶりをふってファイノンは頭の中にこびりつく映像を消し飛ばす。
「そんなこと突然言われても困るよ……ええっと、えー……うーん、海までいくのに距離があった、とか?」
「距離、なるほど。距離……」エフィメリアはファイノンの回答を吟味するように繰り返した。その目線は確かにファイノンに向けられていたが、彼女の焦点は別なところに結ばれていた。頭の中にだけに存在する真理の姿形を探るエフィメリアの声は小さかった。
「エフィーたんはどうお考えなんですか?」すかさずヒアンシーが問いかけた。エフィメリアはそうですね、と小さく呟くと人差し指と中指の腹で左瞼をなぞった。
「わたしは風土に関連するのではないかと思っています。例えば、ファイノン、改めて聞くけれど、エリュシオンの麦は海水を浴びたらどうなりますか?」
「それはどの植物もそうだと思うけど、僕の故郷では海水を浴びたら枯れてしまうよ」
「そう、それこそが理由。つまりファジェイナを頼らない理由なんじゃないかと考えていて……実際農作物を考えるならエーグルやジョーリアの方が頼りたくなるもの……そしてその有り難さこそが信仰心と言われるものを育んでいるんじゃないかと……」
「なるほど。信仰とは感謝と結びつきがあるということでしょうか?」
「いいえ、それは違う。……生活と信仰は深く結びついていること、これはどの人間に聞いても肯定されること……。比較的海の近くで農耕をして暮らす人々と海での漁を中心に生きる人々のファジェイナの重みはことなるのは当然だと思わない?」
エフィメリアは顔を上げて、何かを探すように教室を見回して、裏切られた子供のような顔をした。夢から覚めた瞬間の子供のような顔。そして、数秒経って口元に笑みが浮かんだ。綻ぶような笑顔を見せ、彼女は頷きながら頭に浮かんだ言葉を全て吐き出す。
「わたしが言いたいことは信仰は感謝であることではなく、わたしたちは自分たちの手の届かない問題を、自分たちの利になる展開にしたいという欲望だということみたい。タイタンの信仰という形で表しているのではないかということを言いたい。そう、そうか……」
うっとりとした表情でエフィメリアは教壇の机を撫でた。撫でているのはいたんだ木目だったが、エフィメリアからすれば、彼女の目の前にあるのはいま己は組み上げるべき真理そのもので、机を撫でているなんて認識ではないのだろう。
「……先生、それは失礼ですがタイタンは人間が都合よく生み出した存在だと言っているように聞こえますが」夢見心地のエフィメリアの所作を断ち切るように、学生は立ち上がり厳しい声で吠えた。その声の主の横顔を確認し、ファイノンは思わずこめかみを抑えた。よりによって、礼拝学派の首席だ。
「エフィメリア先生のお話だと我らがタイタンを産んだと行っているも同然です。しかし、真実は違います。タイタンこそが我らを作ったのです、つまり__」
「__『タイタンは我らを望んで作った』ね。」
学生の言葉を引き継ぎ、エフィメリアは応答する。夢から覚めたエフィメリアの焦点はしっかりと発言した学生の顔に結ばれている。
「ご質問ありがとう。そして。礼拝学派の学生に相応しい意見をありがとう、わたしから一つ問題を出したいのですがよろしいですか? あなただけではなくここにいる学生全員に」
花の咲くような少女の顔は消え失せ、エフィメリアは冷ややかに発言した。一つ一つ取りこぼしてしまうことがないように発声に気を配っていた。
「わたしには常々疑問に思っていることですが、なぜタイタンに感情があると信じられるのですか? いえ、タイタンに人間のような感情を認めるのであれば、反対に、タイタンは何も考えていない可能性を信じないのでしょうか。____神に意思なんてなくランダムにサイコロを投げた結果だと考えたことは? 信仰なんて人間が神の行いを自分に都合良く見出した物語で、神は別に人間を選んだわけじゃないとしたら?」
エフィメリアは自分を抱きしめるように腕を組んだ。弱々しいその所作とは真逆にエフィメリアの瞳は微かな光を反射し光っている。ファイノンはその目に中の色彩に取り憑かれた。エフィメリアの眼にあったのは、怒りだった。タイタンへの懐疑と怒り____。
「以上、今日の授業はここまでとします」
カーテンを大きく開けた。永夜の青白い光が教室に戻ってくる。反射的にファイノンは目を細めた。夜の光なんて気にしたことがなかったが、こうして遮られたあと浴びると明るく見えた。