「どうせなら死ぬまで演じて」
「アナイクス先生、わたしと踊っていただけますか?」
会場の隅で、椅子に腰を下ろしたまま影を浴びて置物のひとつとなっているアナイクスに、エフィメリアは左手を差し出した。彼女の親指にはアナイクスと揃いの金色の指輪が嵌っている。そしてそれを一瞥してアナイクスは口の端を引き上げ、皮肉に笑った。
「……私に足を踏まれるから嫌なのではなかったですか?」冷たい言葉を吐きながら、アナイクスはエフィメリアの左手の甲を撫でた。骨や指の細さを確かめるような触り方に、エフィメリアは焦ったくなって一歩距離を詰めた。エフィメリアとアナイクスの額はほとんど触れ合って、密談には相応しい距離感になった。
「昔、教えたじゃないですか。ワルツの踊り方」
「いつの話でしょうか。覚えていませんよ、そんなこと」
「嘘つき。いいえ、本当に忘れたんだとしてもわたしがエスコートしてあげますから心配ありませんよ! ふふ、さっきのお返しですね」
エフィメリアは答えは聞かずにアナイクスの手を取って会場の外へ出た。樹庭にはない華やかな装飾品を横目に、誰もいないバルコニーに向う。手を強く握り返すと同じくらいの強さで握り返されるのがエフィメリアは笑い出したくなる。愛おしくて。隣にいる自分の先生が愛おしくてたまらない。
バルコニーに着くと、鮮やかな黄色の花が咲いていた。エフィメリアはその花を知っていた。花の名前は___アグライア。もう200年以上前に作った花。エフィメリアは、彼女も花であればずっとそばにいてくれると無邪気に考えていた。
「なかなか二人きりになれませんね」
「はは、あなたがこの花を見てそれをいうのですか? 私の方が、あなたの過去を見せられて嫌な気分になることが自然です」
「アナイクス先生のそれは師としての嫉妬ですか?それとも……」
エフィメリアが最後まで言い切る前にアナイクスは花とエフィメリアの間に割り込むと、エフィメリアを花から隠すように口付けた。アナイクスの手袋をした左手がエフィメリアの頬を撫でる。親指にある指輪をエフィメリアは視線だけでおった。
「どちらもですよ。あなたの過去は変えられませんが、もっと早くあなたを知っていればこんなものも作らせませんから。ひとりで寂しい思いなんてさせなかったでしょう」
エフィメリアが何か言ってしまう前に、物を言うために口を開いたその唇に再度己の唇を重ねた。薄く開いたその隙間から舌を入れ、言葉を語ろうとしていたそのカタチのままのエフィメリアの舌を絡めとる。角度を変えて口内を蹂躙する。何度も何度も。口に含まれる唾液はもうどちらのものなのかわからなかった。せんせい、とエフィメリアが呼吸と共に漏らす。空いている右手がアナイクスの外套を握りしめた。
永遠に鮮やかなまま咲くその花はエフィメリアが、アナイクスに師事する前に若い頃に作ったものだった。ドレープのように美しく波打つ鮮やかな黄色の花弁と誰もが足を止めてしまう甘い香り__その代わり、生殖能力は皆無で膨大な水を欲する花。月の最初の10日は冷たい水を、月の最後の5日は暖かい水を、咲かせ続けるために膨大な時間と手間をかかるその話は、貴族の家とこのバルネアにしか定着しなかった。後者は言うまでもなく、アグライアのエフィメリアへの愛情の現れだった。自分が連れてきたかわいい子が作った作品を慈しむ姿。アナイクスからすればそのアグライアから注がれるエフィメリアへの愛が目障りで仕方がない。アグライアの元で庇護されていたのはもう遠い過去になったのに、アナイクスと口付けを交わすこの瞬間でさえエフィメリアには念入りに金系が絡んでいる。
わざと音を立ててエフィメリアの口内を犯しながら、アナイクスはその金糸が離れていくのを待った。__聞きたいなら聞けばいい。
「せんせい、」
「嫌だと言われてもやめてあげられませんよ」
エフィメリアは首を振って、右手でアナイクスの薄い胸を叩いた。双眸がアナイクスを睨む。上目遣いで睨むその表情は本当に怒っているものとは真逆だった。その目に映っているのはアナイクスただひとりだけ。「違う。やめないで」エフィメリアはアナイクスの顔を引き寄せた。
そのキスに答えるようにアナイクスはエフィメリアの腰を抱き、自分の身体に密着させた。触れていないところがなくなっても、その先があるようにすべてを重ねる。違いの唇から漏れる水音は情事とにている。アナイクスはエフィメリアから主導権を奪い返し、舌を吸い上げたり、つついたり、わざと音を立ててキスを続ける。アナイクスは金糸が去っていくのを横目で見ながら、笑い出したいのを堪えた。
「これで本当に二人きり。質問があるのでしょう? いくらでも聞きますよ、エフィー」
アナイクスはキスをやめ、エフィメリアの耳元に横髪をかけた。いつでもキスを再開できるほどに近く、鼻先を触れ合わせながらアナイクスは囁く。
「……ここ外ですよ、しかもオクヘイマの……樹庭の先生の自室でもなければ研究室でもありません」
「だからなんです? どこでも同じですよ」
「…………どうして、こんなことしたんですか?」
「恋人同士がキスをしたくなったらしてはいけないんですか? 世を偲ぶ恋のつもりでしょうか」
「そうじゃなくて。ファイノンのことです。ただ恋人ですと答えればよかったのに、どうしてこんな回りくどいことをしたんですか?」
「ああ。聞いていたのですか? 離れていなさいといったのに盗み聞きとは品がありませんね……」
「アグライアと一緒に? 彼女と一緒なら結局離れたとしても聞こえてしまうから意味ないのに。わたしに聞かせたかったんですよね?」
エフィメリアの瞳に映っているアナイクスは甘い恋人の顔をしている。目の前の人間の一挙一動を拾って、愛おしさばかりを浮かべている顔。愛玩動物を愛でているようにも見えて、エフィメリアはその顔をひっぺがしたくなった。
「はあ、今、他の者の話などしないでください。やっとあの女からあなたを取り戻すことができたというのに……」
「アナイクス先生」エフィメリアが睨む。
「まあ、いいでしょう。答えてあげます。考えるまでもありませんが、単純にあなたと私が結ばれていることを知らしめるいい機会だったからです。せっかくなら私が語り聞かせることよりも自分たちで真相に辿り着いた方が覚えもいい」
「アナイクス先生、わたしが知りたいのはその点ではなく、問題にしたのにどうして正解を教えてあげないのか、ということです」
先ほどまでの愛おしい恋人を見る表情から、アナイクスの表情が変わる。エフィメリアは眼帯で覆われていないアナイクスの右の頬を撫でた。アナイクスと揃いの指輪がある親指が触れるところが冷たかった。
「ファイノンが導き出した回答は嘘ではない。__でも、事実でもないでしょう? わたしは花が散ることが美しいという事実を疑った。なぜなら、わたしの花は先生が……」
みなまでいい終わる前にアナイクスはエフィメリアに口付けた。ただ触れるだけで、言葉を奪うとすぐに離れた。静寂。誰かがドアを開けたのかふたりの足元までワルツが聞こえてくる。三拍子の中で、アナイクスはエフィメリアを抱いたまま、ステップを踏む。
「____それは私だけが知っておけばいい話。彼らに教えてやる義理があるとでも?」
よくできた恋人の顔が剥がれ、どうしようもない男の顔がのぞく。独占欲。執着。支配欲。寂しさと、最後に甘え。エフィメリアは微笑んだ。アグライアに見せてあげたい!わたしはこの人に特別に愛されている。誇張した恋人ではなく、ただの人間として。見せることをアナイクスは決して許さないことを理解していたが、それでもその空想はエフィメリアの口元を綻ばせた。
「手ずから咲かせた花を見せびらかしたい気持ちもありますが、見せびらかすことで誰かに散らされてしまうのなら話は別です。それとも、私だけに可愛がられるのは飽きてしまいましたか?」
そう、喉の奥で笑いながらエフィメリアの肩甲骨のあたりを撫でる。アナイクスの視線はエフィメリアの顔に注がれていて、背中の状態など見えない。もっと言えば、エフィメリアはアナイクスの寝台の上にいる時と違って衣服を身につけていて、誰の目にもエフィメリアの身体を見てはいない。
「ファイノン、ヒアンシー、キャストリス、あの子たちは優秀です。優秀な子は、期待し甲斐があります。私が用意した通りの道筋で、私が答えて欲しい通りの回答に辿り着きました。ダクリスへの信仰、ダクリスの白い花、あなたが不完全なダクリスであること、そして、私がその事実を放棄したこと」
ワルツの三拍子に合わせてアナイクスは腕を上げた。そのリードに合わせてエフィメリアはアナイクスの腕の中に収まる。ドレスの裾が花弁のように広がった。この瞬間、全ての人が花だった。エフィメリアの耳にアナイクスは口を寄せ、堪えきれない微笑みを浮かべていた。難問を解いた少年の顔。
「あなたの過去は遠くなり、ダクリスとして見られることは減りましたが、今度は学者としてあなたは魅力的になりました。学生からも先生と呼ばれることが増えましたね。そうなるとこれまでと違う問題が生じてきました」
足を一歩後退させ、アナイクスはエフィメリアをリードする。
「あなたのことを慕い、あなたの思想を元に、あなたに教え導いて欲しい学生が出た。__しかも礼拝学派で、あの者はあなたの過去を知らない。孤独をしらない。だから、私を無視してあなたを自分の研究に巻き込もうとしている、蓮食学派や結縄学派まで入れている念の入れようです。さぞ大掛かりな研究になるのでしょう」
踊りながらアナイクスは愉快そうに続ける。周りに金糸はなく、すぐ側に人の目もなかった。
「私は気になったのです、もし、いまダクリスという言葉を元に調べたのならどのような答えになるのか。あらゆる事実が判明した時、私が作った保険であるあのダクリスの花の色を聞くあの絡繰は私の想定した通り作用するのか」
「じゃあアナイクス先生は賭けに勝ったんですね」
「はは、面白いことを言いますね、エフィー……。賭け? あれは私の粘り勝ちですよ、100年かけた甲斐がありました」
音楽を無視してアナイクスがエフィメリアを抱きしめた。
「私はあなたを人間にしたかった。そのためにダクリスの伝承は邪魔だった。真実であっても、暴かれるべきではない真実がある。何よりあなたがそれを望みましたから……だから、いま私たちの罪を裁くことができる者が存在するのかを試したのです」
アナイクスは右目だけでにっこりと笑った。
「これで私たちは共に地獄行きですね。はは、地獄でワルツでも踊りましょうか!」
柱の影に隠れるようにアナイクスがエフィメリアのドレスのウエストを撫でた。そのままドレスを固定する細いリボンの表面を弄ぶ。つるつるとした表面に人差し指を滑らせたり、中指と薬指で余っているリボンを挟んですーっと端まで通したりして揶揄うアナイクスの右手をエフィメリアは押さえた。
「何か?」
「……わかってるくせに」
「ふふ、嫌いになりましたか?」リボンから手を離し、アナイクスはエフィメリアの右手に口付けた。手首の裏にそのまま唇を滑らせて、微笑みながら自分の頬にエフィメリアの手を導く。
「……わたしが自分で選んだから嫌いになんてなりません。神の愛を疑うことも、誰も、サーシスの代用とみなさないことも、アナイクス先生がすきなのも」
「知っていますよ。あなたが私を愛していることは、痛いくらいに。あなたが想像しているより正確にあなたから受け取っています」
「受け取ってください。わたしも大事にしますから。……ねえ先生。わたしね、長い人生の中でアナイクス先生と一緒にいる時間が一番幸せ」
「私もそうですよ」アナイクスが目を伏せた。エフィメリアが優しく撫でると、アナイクスは表情を和らげ、手に頬を預ける。
「っていうか、先生!普通に踊れてるじゃないですか。万が一と思って外にきましたけど、これだったら普通にホールでみんなと踊ればよかった」
「それは論外ですね」
「なんでですか」
「あなたが言ったのでしょう、私以外と踊らないでほしいと」
「……アナイクス先生、ダンス教えた時のこと、やっぱりちゃんと覚えてますよね?」
「私は一度も忘れたなど言っていません。あなたがくれたものはすべて覚えていますから、あなただってそうでしょう?」
「……はい」
ワルツはまだ流れているが、もう踊る気はなかった。エフィメリアはアナイクスにそっと口付けた。