ぼくらは祈りの言葉を持たない
「これがダクリスの全て。それで、ファイノンあなたたちはこれ以上何を知りたいの?」
「いや、十分。エフィーさんに確認したいことはもうない。今僕が聞きたいのは、アナイクス先生、もう一度答え合わせをして欲しい」
黙っていたアナイクスが片眉を上げる。
「答え合わせですか。私には昨日以上に語るべきことなどありません」
「いや、あれは不正解だと言っていたじゃないか。先生は模範解答を教えてはくれなかったから、僕たちなりに考えてみたんだ」
「それは殊勝なことです。それでなにかわかりましたか?」
向き直るアナイクスは関心がなさそうに、言葉だけをファイノンに飛ばした。
「気が乗りませんね」
「アナイクス先生、わたしは興味あります。ファイノンがなんていうのか」
「はあ……。エフィメリア、あなたには恥じらいがないのですか?昨夜は私の下でどこを触ってもやだやだいいながら甘えて泣いていたのは別人だったのでしょうか」
「アナイクス先生!」
「冗談ですよ。エフィメリア、あなたはアグライアと少し離れていてくれますか。……彼女が離れたら、ファイノン、あなたの質問を聞きましょう」
エフィーを連れてアグライアが温室の奥に行く。2人の姿がずっと小さくなってなってからファイノンはアナイクスに質問した。
「ひとつ、答えを考えるにあたってひとつ確認したいことがあるんだ。エフィーさんの、黄金裔の欠陥について教えてくれないか」
黄金裔の欠陥、の言葉にアナイクスの細い眉が跳ねた。本の数秒だったが、ファイノンに勇気を与えるには十分だった。肩幅に足を開き、アナイクスに向き直る。
「エフィーさんはダクリスであることに嫌気が指しているじゃないかと思って、僕はあの結論を出した。でも、あの論文__『なぜモネータは花は散ることが美しいと定めたのか?パルフォス古代寓話集におけるモネータからの考察』がエフィーさんが書いたものだとまた話が変わってくる。エフィーさん本人から聞いたよ、あの論文は、花が散ることが美しいとモネータが定めたのだということに疑問を投げかけたかった」
アナイクスの視線が確かに自分に向けられていることを確信し、ファイノンはさらに声を張り上げた。目の前で採点をされることは何度経験してもなれるものではない。
「エフィーさんは、信仰対象にされることが嫌だった。なぜなら、エフィーさんは黄金の血が流れていて、その代償に花が咲かないから。……アグライアの口ぶりだと普通のダクリスは黄金の血じゃないんだよね。__花は散るさまが美しい。そんな信仰を向けられているのに、エフィーさんは散る以前の問題を抱えていたなら、あそこまで感情的な論文を作るのもわかるよ」
あの論文を思い出す。そしてそれにアナイクスが何と答えたのか。あの場でアナイクスだけがエフィメリアの意図を理解し、一人の学者として批判していた。花が散ることが美しいからと周囲から好奇の目で見られる人が、その神の決定に懐疑を投げたときたった一人だけ、自分の意図を汲み取ってくれたとしたら。ファイノンは恋を知らない。恋人はいない。けれど、想像がつく。____きっと世界がひっくり返っただろう。誰もわかってくれない声を聞いてくれない言葉の通じない、ないない尽くしの中で、言葉を理解してくれる人。救われた。
「安心して、僕は誰にも言うつもりはないよ。だってこれは樹庭の他の誰も知らないことなんだろう? 知っていたら、エフィーさんに向けられるダクリスについて美しいと言われている形容も神聖視も全てなくなる」
「そんなに上手くいくでしょうか」
「うん。僕も同意見だよ…むしろ裏切りだっていう人も出てくるだろうね。そうだとしたら、エフィーさんは……」
言葉に詰まった。想像がつく。ファイノンは右手を握りしめた。
「そこで、改めて教えてほしい。昨日キャストリスさんが最後にした質問と重なるけれど、改めて聞かせてほしい。……ダクリスの伝承が本当だったと証明したのに、それを2人で黙っている、いいや、その伝承さえ意味がないものとして定着させようとしているのはなぜだい?」
言葉を選ぶために、ファイノンは一度言葉を区切る。
「エフィーさんを守るため?」
ファイノンは手記の内容を回想した。そして師に問いかけた。
「手記を読んだよ。魂の構成の比較の項目。対象は、エフィメリア、アリストパネス、サーシス……サーシスの神体を使った実験だ。今更アナイクス先生が冒涜をしている頃にどうこういうつもりはないよ、ただ教えてほしい」
これだ。手記の端を握る指が震えたのをファイノンは覚えている。
「サーシスの魂の構成とエフィーさんの魂の構成は限りなく一致する……もちろん一致しないところもあるけど、それはモネータの涙……これはつまりエフィーさんはサーシスの一部だということだよね、アリスとパネスと比較すると一目瞭然だ……」
アナイクスは瞬きひとつしないでファイノンの言葉を鼻で笑った。
「ファイノン。あなたは私が神が憎いから黙っていると思っているのですか?」
「____うん。そうだね。でも確か先生はタイタンと人間の魂の類似性を証明したいんだよね? これは確かに涜神的ではあるけど、功罪によってギリギリ看過してもらえるものなんじゃないのかな。もみ消すなんて、先生らしくない気がして気になった。それとも、それほどまでに先生がエフィーさんを愛しているってことなのかな?」
沈黙が満ちた。
「ファイノン、学者が一番好きなものは何か知っていますか?」
アナイクスがおもむろにファイノンに問いかけた。首を左右に振って否定すると、あのアナイクスは腕を組み、低い声で「答えは、不完全です」と語った。
「私たちは不完全なものを見ると己の手で完全にしたくなる__わかりますね?これは、エフィメリアにも言えることです」
指先でアナイクスはテンポを刻みながら、その先を続けた。
「あなたの言うとおり、エフィメリアは不完全なダクリスです。しかし、樹庭の学者の手にかかればエフィメリアの花なんて簡単に咲かせることができるでしょうし、研究さえ続ければ彼女、エフィメリア自身にだって可能です。そして、私は彼女自身が咲かせるべきだと考えていました」
一瞬瞑目し、アナイクスはふっと視線をファイノンから外した。その先にはエフィメリアがいた。
「……せっかくなので、模範回答を差し上げましょう。____問題は『私たちはどのような関係なのか。それを公表していない背景について答えよ』。私とエフィメリアの関係は『共犯者』。理由は次のとおりです。私は彼女を誰かの都合のために散る花になんてしたくなかったから。私が彼女の花を一番うまく咲かすことができるから。最後にほかの誰の花にもしたくなかったから。最後は情が移ったとも言い換えられますね」
「先生の表現は比喩が多くて難しいな」頬を書いて眉を下げると横からヒアンシーが耳打ちする。
「ファイノン様、これは照れているんですよ」
「いいでしょう。一度しかいいませんからよく聞きなさい。神や信仰。そういう理由で勝手に祀りあげて、本人が望んでいないことをさせる__人間性を奪って都合のいい神体にする。彼らの都合に悪いから不完全だと石を投げ、完全にしたいと欲望をぶつけ、挙句には物を家無くして祀りあげる。手ずから育てた大事な教え子をそんな者に渡すわけがないでしょう」
アグライアと話すエフィメリアをアナイクスが見つめる。少女のように笑う。夜空を思わせる紺青のドレスは彼女によく似合っていた。
「しかしこれは答えにはなりませんよ。背景ではなく裏話。私情ともいいましょうか。」
「いいえ、十分答えになるんじゃないですか。先生がエフィーたんを愛しているということじゃないですか。」ヒアンシーの言葉をアナイクスは鼻で笑った。
「ふん。恋人になるのが片割れの愛情だけだというなら随分安い愛ですね。」
アナイクスが鋭く息を吸う。
「問題なのはエフィメリアの方です。顔を見る限り、あなたたちはダクリスという生物についても一通り理解したようですが、改めて認識を擦り合わせましょう」
「ひとつ、エフィメリアは他のダクリスと比較して、魂の比率が異なる。そしてエフィメリアの魂の構成はサーシスと類似している、いいえ、ほとんど同じといってもいい。微かな違いはモネータの因子であると推測できます。」
「そして、ふたつめはエフィメリアには黄金の血が流れていて花が咲かない。どうやら黄金の血には成長を阻害する機能があるようです。現在のエフィメリアは上背もあり、胸、ウエスト、腰回りはすっかり妙齢の女性ですが、私に師事し始めたばかりの頃はまだ少女の骨格でした。まあ、エフィメリアは当時から決して貧相だったわけではありませんが……」
何かを思い出したようにアナイクスは喉で笑い、キャストリスが握る冊子に視線を向ける。
「少々脱線しましたが話を戻しましょう。魂の構成、黄金の血の影響。以上の事実を、私とエフィメリアはサーシスの神体を使い証明しました。これがどういう意味になるか分かりますね?」
「具体的にはこれはバレたらどうなるんだい?」
「そうですね……まず、刑罰は免れないかと。酷くてアナイクス先生は見せしめに民衆の前で処刑されるか、一番恩情な処置で樹庭から追放されて一生涯監視されることになる、でしょうか」
「……考えるだけでも恐ろしいですね」キャストリスは手袋を身につけた両手を硬く繋いだ。
「ふん。私のことはどうでもいいんです。それについては当の昔から覚悟していますよ。左目を失ったときから」
「アナイクス先生ならそうでしょうけど、エフィーたんはどうするんですか?」
黙っていられなかったのかヒアンシーがアナイクスの言葉を遮った。
「……そうです、問題なのは私が告発された後のエフィメリアです。彼女は師である私を失いますから、まず後ろ盾を失くす。私が消えれば彼女の古巣である礼拝学派は彼女を引き込むでしょうし、山羊学派、蓮食学派も黙ってはいないでしょう。エフィメリアは私とは違い、処刑されることはない。しかし、悲惨な生涯を送ることになるでしょうね」
「なぜだい? 信仰を否定されて怒るならともかくサーシスと同一視されてそこまで酷い目には……」
「聞いていなかったのですか? 私が処刑される場合、証明したものは確かに正統性が認められている。つまりエフィメリアの花を咲かせることが叶えば。この世に存在する純なるタイタンの創造物になる。これを聞いて正気でいられる学者がいるでしょうか」
自分で問いかけてからアナイクスは緩く首を振った。そして声を張り上げた。
「エフィメリアは学者としてではなく、実験対象として文字通り、彼女が死ぬまで身体を好きに弄られる。繁殖もさせられるでしょうね、他のサンプルが必要ですし。他のダクリスが役目を終えてもエフィメリアは活動しています。すでに信仰対象になることも避けられない。わかりますね?彼女に流れる黄金の血が花を咲かせることも、母なる樹に還ることも阻害する。世界が滅ぶまで、彼女は孤独です」
ファイノンは思わずエフィメリアを見た。温室の向こうでアグライアと微笑みながら談笑する様を見つめた。
「だからこそ彼女には自分の力で学派を築き、学者として大成してほしかった。私の庇護などいらないほどに。しかし。結果はあなた達のご覧のとおりです」
「なぜアナイクス先生はエフィーさんを学派に置いているんだい?」
「……エフィメリアがサーシスでもモネータでもなく、浪漫の半神であるアグライアでもなくこの私を選んだからです。神の愛ではなく冒涜者である私を選んだ。そして私は彼女に答えた。理由は繰り返しません。だから彼女を傷つける可能性があるからあのくだらない伝承を無意味になるまで待った。それだけです。しかし、もう時効。150年……思いのほか短かったと言っていいでしょう」
人呼吸おき、アナイクスは教え子の顔を眺める。
「以上ですが、ファイノン、これであなたの質問に回答したことになりますか?」
「正直まだまだいろいろ聞きたいことはあるんだけど……」
「残念ですが、私があなたたちにしてあげられる話はありませんよ。この先にはありふれた恋物語しかありません。恋人には恋人の物語があるものですが、教育の場には相応しくありませんし、何よりもよく聞くような恋物語と変わらず、退屈です。師から弟子へ語るべきことではないでしょう」