グッド・ミュージック
頬を撫でる風が気持ちがよくて重い瞼を開ける。カーテンは半分だけ開いてある。ベットの方は隠してあるようにみえて、被ったタオルケットの中で丸くなった。こういうところがズルい。「環」名前が呼ばれる。そうや、と名前を呼び返したけれど、喉が痛くて掠れた声しか出せないし、腰から下が重い。どう考えても昨夜のせいだった。
「起きれるか?」
首を横に振る。こしがいたいです、と告げる。昨夜のせい、と遠回しに主張すれば、蒼也は眉根を寄せた。かわいがられたといえば聞こえはいいけれど、しんじゃいそうなぐらい気持ちいいなんて一種の暴力だ。蒼也の手がブランケットを中途半端に剝ぐ。露出した肩をするりと撫でるから、変な声が出るかと思った。必死に噛み殺したのを蒼也が横目で観察している。あれもこれも全部蒼也のせい。なんでそんな涼しそうな顔してるの。
「今までで一番気持ちよさそうだったな」
「恥ずかしいからそれ以上いわないで」
上半身を起こしたわたしの腰を蒼也が撫でる。ひゃ、と高い声が出た。もう散々したのに。やだ、と言おうとしたけれど、今度は肩甲骨のあたりに唇が落とされる。やだ、あまったるい声が出る。
「朝です」
「そうだな。……ところで、俺は誕生日のプレゼントが欲しいんだが、リクエストは受け付けているか?」
普段は絶対そんな文脈が破綻した言葉はつかわないのに、そのまま蒼也は後ろからわたしを抱きしめる。
「蒼也、誕生日おめでとう」
「……寝る前も言ってなかったか」
「先輩っていっちゃった気がしたので。……蒼也に言いそびれたらせっかく一番もらえたのに意味なくなっちゃう」
「……あんまりかわいいこというなって意味だ、わかれ」
「横暴」
蒼也が下着と服の散らばった床から、ミネラルウォータを持ち上げてわたしの頬にくっつける。ぬるい。文句をたれれば仕方ないだろう、とでも聞こえてきそうな呆れた視線が帰ってくる。透明なペットボトルと無色透明のミネラルウォーターで光が反射して眩しい。
「ぬるいミネラルウォーターほど嫌なものはないです」
「前言撤回だ、おまえはかわいげがない」
「でも蒼也はすきでしょう」
「……そうだな。かわいくてもかわいくなくてもすきだな」
額をくっつける。前髪はとっくのとうにぐちゃぐちゃで、丸っこい蒼也の額はひんやりしていてちょうどよかった。
「なにがほしいの?」
「おまえが欲しい」
赤い眼にわたしは見えない。距離がなくちゃわたしはいまどんな顔してるかなんてわからない。蒼也の手が髪をすくう。耳にかける。「甲斐性がないというか?」と笑みを浮かべた。ずるい。
「起きたばっかりでしょ。腰も痛いし昨日も、したし、たくさん」
「俺は寝起きじゃないし、心配しなくてもたくさんはしない。朝だからな」
「朝ごはんはいつたべるつもりですか……」
「そうだな。じゃあシャワーを浴びて、朝ご飯を食べてからでも遅くはない。それでいいな?」
蒼也がわたしの身体を抱き上げる。驚いて、飛びつくみたいに蒼也の首にしがみつく。ちょっと、わたしの方が身長高いのに。蒼也の筋肉とか、もっとちゃんとダイエットしておけばよかったとか、こんなヒロインみたいなことあっていいのとか。何も言えず蒼也の涼しそうな顔を見ているほかできなかった。
「……そんな顔してると、予定を変更するぞ」
「どんな顔……?」
はあ、わかりやすく彼がため息をつく。わたしの身体からタオルケットがはがされて、足元に落ちて花びらみたいに広がった。足が床につく。蒼也の赤い目の中にわたしだけが映っている。
「おはよう蒼也」
「……ああ、おはよう環」
「買い忘れた」と恋人が言う。それはそれは、もうすごく真面目な顔つきだったので、きっと大変なことなんだと思った。だから手を引かれたまま、いいよ、と答える。だって、蒼也のいうことなら大事なんだと思って。コンビニの白い光が眩しくて目を細める。歩道橋から見下ろす夜の線路と全く反対の色彩に、目が違和感を訴えるので二回ほど瞬きをした。掠れて、にじんで、「環」と名前を呼ばれ、顔を上げる。
「欲しいものあった?」
「ああ。これだけあれば足りるだろう」
「これだけって……な、に」
蒼也の抱える籠を除けば、『コンドーム』というゴシック体が視界に入る。なんで、とか、はずかしいとか、いろいろぐちゃぐちゃになって、「せんぱい」と震えた声で呼んだ。だって相手は風間蒼也だし。彼の真面目な顔にはちゃんと意味があるって思ってしまうのは、長らく先輩後輩という図式を続けてきたからかもしれない。いや、うん、当然すごく大事だ。
「必要だろう。ここまで来てお預けはないと思うが」
「それはそうなんですけど、そうじゃなくて……わかるけど……わたし外出てていいですか?」
「もう外は暗いから中にいたほうがいいんじゃないか?」
「この時間にゴム買うのってなんか、すごく、これからヤります!って感じで恥ずかしい……」
「よく喋るな」
だってだって、と小学生みたいな言葉を繰り返す。買わないわけにはいかないから、蒼也もわたしの意見は全く耳に入れていない。必要なのはわかるけど、でも、昨日まだ残ってなかったっけ。思い返そうとすればするほど恥ずかしいことばかり頭の中に映る。ばか。
「ここで買わないわけにはいかないからな。俺のマンションの最寄りだし、もう家にはない」
ない。つまりゼロ。昨日の甘ったるい時間が全身に回る。あつい。と文句をたれながら蒼也の肩に顔をうずめる。
「あと他に、なにかほしいものがあれば追加で買うが、要望は」
「……フルーツサンド。あと、明日の朝ごはんになりそうなものとミネラルウォーター」
陽気な音楽といっしょに自動ドアをすり抜ける。
「今日と明日、どっちももらうぞ」
「じゃあそれがふたつめのプレゼントってことにしましょう」
手を繋いだ。夏はもう去ってこれから寒い冬が来て、夜は長くなる。黒いアスファルトを白くくり抜く街灯が見える。虫がたかって汚いのに、蒼也の額が白く染まるのがどうしようもなく好きだった。あなたと会ってからわたしはいつもそうだ。「環?」赤い目の中にわたしが映っている。全部がすきですよ、なんていったら、どうする?世界でふたりみたいな静寂が満ちる。夜に。あたり一面の黒に。アスファルトとコンクリートに。
歩道橋のすぐ横を通り過ぎて、足が止まった。フェンス越しに派手な音とかすかな振動が伝わってくる。左側に視線をやれば、線路をなぞって列車が通り過ぎていく。白いヘッドライトがやけにまぶしい。
21.09.24