シャング=リラ
路地を曲がって、交差点を過ぎて、黒いアスファルトで舗装された歩道を歩く。横目で彼女の横顔を観察する。10センチと少し上にある頭はまっすぐと前を向いている。手をそっと伸ばす歩道橋を上がって、足が止まった。足元から派手な音とかすかな振動が伝わってくる。左側に視線をやれば、線路をなぞって列車が通り過ぎていく。白いヘッドライトがやけにまぶしい。
恋人の左手はすこしだけ、汗をかいていているようだった。いつもなら俺の手に収まっている手が彼女の歩行に合わせて揺れている。俺の視線に気づいてかそれともまったく気が付いていないのか、彼女はそういえば、と会話を切り出した。顔をかしげると耳に掛けた髪がするりと滑り落ちて、彼女のピアスを覆い隠した。
「今日と明日、二日連続でカレーになっちゃいますけど大丈夫ですか?」
「構わん。なんなら今からでも食える」
「今から作ることになっちゃうから駄目です」
疲れの滲んだ声に、ふ、と息を吐きながら「残念だな」そう正直に告げる。環は環で「明日のお楽しみってことで」とだけ呟き、眩しさに耐えるように目を細めた。喉、心臓、肺。ありとあらゆる臓器が俺を圧迫していく感覚。反射的に利き手が跳ねる。同時に右手に握った紙袋が俺の僅かな身じろぎと共に音を鳴らす。じれったくなるが、これは歌川たち隊員がくれたプレゼントなのでアスファルト、しかも誰が通るのかわからない道になど置くわけにはいかない。これがいつもの諏訪宅での飲み会であれば何も問題なかったのに。きっと今頃、抱きしめるまで叶わなくとも環の、彼女の肩に額をくっつけることぐらいはできたかもしれないのに。
環は足を止めて手すりから線路を見下ろす。プラットホームからは距離があり人影も感じることのできない駅舎とレールは無機質さを隠さない。左手から環の手が滑り落ちる。意味の分からない行動に環の横顔をさぐるが、視線は合わなかった。
「環、何かいいたいことがあるならここで言ってくれ」
環、焦れてもう一度名前を呼ぶ。抱きしめるのもくっつくのもこらえているのに、手を離されるというのは気持ちがいいものではない。
「月並みな言葉なんですけど、蒼也の誕生日を祝えて幸せだなあって」
「……次は、誕生日ふたりきりで過ごすか?」
「どういいわけするんですか。諏訪さんたちはしってますけど、あんま言いふらすのも」
「いいわけなんかする必要はないだろう」
返事はない。わかりきったことだ。
ボーダーという決して大きいとはいけない組織の中で恋愛をしているというのは、なかなかにリスキーではある、わかっている。だがそれはそれで、これはこれだ。俺と環は間違いなくうまくやっているし、察している奴はいるが、まあ、上層部からも他の隊員からも特に言及されない時点でこちらの勝ちだ。
横を向いて、地面に沿った線路を眺める。黒く暗い形容しがたい空気の中に、白っぽい光が目を引き裂くように走ってくる。轟音と振動が足元でひしめいた。駅舎から滑ってきたのは各停電車ではあったが、耳に障るような激しい音が不快だと思う。いつからそんな風に考えるようになったんだろうか。彼女の頬がうっすら白くなっている。今更ながら薄着の環に気が付く。
「早く帰るぞ。このままだと風邪ひく」
いつもなら繋いでいるはずの左手が寂しい。もちろん、俺の両手がふさがっているために環はいいだせないのだろう。これぐらいなら、一方の紙袋に入れたっていい。わかっている。中身がカレーだから環は遠慮している。だから俺は『彼女に心配するな』と事実を述べるだけでいい。だが、なんとなく回り道をした。なんとなく。意味もなく、理由をこじつけることさえできない。そういうのは迅や諏訪の手だろうに。つい開けてしまった缶ビール一本が脳裏を駆けていく。
「まあ風邪さえ引いてくれれば、おまえの数日は俺だけで終わりになるんだが」
「酔ってるひとの言葉は聞きません」
かわいげのない言葉に、俺はむきになってまくしたてる。
「なにもおかしい話ではないと思うが? 俺がおまえを独占したいと思い始めたのは何もついさっきからじゃない。誕生日ぐらいワガママを聞け。意地を張るのも構わないが、あんまりだと俺が勝手に判断するぞ」
「どんなふうに?」
「いやよいやよもすきのうち」
即答してやれば、環の横顔は少し下を向いて、目線は照れたようにうろついた。二回瞬きを繰りかえす。でも結局それだけでは足りず、瞼が下りる。うろたえる環なんてめったに見れるものではない。
「こっぱずかしいこと言わないで……。蒼也、なにかレイジさんに吹き込まれたんでしょ?なんか、こう、ロマンチストの極意みたいなやつ」
「馬鹿言うな。本心だ」
いま、俺は酔っているのか。先ほど否定したはずの言葉がここで存在感を強めていく。答えが見つからない確信だけが深まる。口は好き勝手に言葉を吐いていくのに、冷静な自分が環の光彩にいる俺を眺めていた。風が俺と環の間を通り抜け、どこかの踏切音を運んでくる。環が塀に肘をついて、顔を伏せた。なにかをいったらしいことだけがわかった。溺れかけの言葉はいつ訪ねればちゃんと答えるだろうか。そうやって、くだらないことを考える瞬間がたまらなく愛しい。
「髪、伸びたな」
「……ポニーテールしてデートに行くのが夢だったので」
「伸びたら俺が結んでもいいか?」
「蒼也は髪なんて結わえたことないでしょ?」
「調べればできるだろう。それに」
言葉を区切ったことに意味はなかった。環は俺の言葉のさきを静かに待っている。目の中にどうやって映っているのか。環の目には黒ばかり映っていて、俺の顔は見えなかった。夜だから当然と言われればそこまでだが。こっちをみろ。環。名前を呼ぶ。何回でも繰り返す。
「おまえのことなら、なんでも一番最初に見たいからな」
つむじから一房だけ指で掬い上げて、首筋に落ちた毛先までゆっくりと辿る。「ずるいなあ」環が零す。朝、環が鏡の前で寝癖を撫でつける仕草が、ふと、脳裏に映った。おはよう、掠れた声。隠しごとのないまっさらな後輩のこと。環の視線がやっと俺と交わる。空っぽの右手が俺の服の裾にぶつけてくる。両手がふさがっていて、俺は捕まえ損ねる。幸せにしてね。呪いが俺の首を覆い囁く。あの子のことよろしくね。環、おまえにはわるいが、俺はまじないなんて信じていない。だから、あの呪いを末永く受けてはくれないか?
「幸せにしてやれるかはおまえ次第だ。でも、離してやれない」
「明日も明後日もいますよ、わたしは。幸せにしてやるってなんでそこだけ上から目線になるのかな。わたしの幸せはわたしが、どん定義するしつかまえるんですよ。どんな手段を使ってでも」
「そうだな。俺は目的ためならどんな手段でもとる。おまえと同じだ」
ふふ、と笑う環に俺はなんだ、と問う。なんでもないよ、と笑った環は俺の服の裾を引いた。
「今日の残りと、明日全部先輩にあげます」
後輩はそうやって笑った。それから、俺の左手に下げた木崎のカレーを持っていく。
「やらないぞ」
「違います、そんな食い意地張ってません! その、手汗もひいたし、あと、手が寂しいの。……ダメ?」
空っぽの右手が俺に向かって差し出される。重ねる。指を絡めれば、環の冷えた指先もきゅうと握り返してきた。これがいい、これがほしかった。
「……俺の負けだな。手汗なんか気にしないと主張しそびれた」
「風間先輩に一泡ふかせることができて後輩冥利につきます」
「なんだそれは」
酔うのなら、この時間に酔いたいものだ。階段の中段部分に差し掛かったあたりで、フェンスをはさんで一つ隣を電車が走っていく。たった一瞬だけが特別になるなんて、環に出会うまで一度だって想像したことがなかった。
毛布のような、カンテラのような、夜の街灯のような、春の木漏れ日のような。環の横顔、白いシャツ、腕、すべてが踏切の警報の赤に染まる。「今夜はひとりじめだな」環は、轟音のせいにして聞こえなかったふりをした。俺の恋人は隠し事が下手で、視線を外しても首まで赤くしているというのがかかわいいと思う。こんな風に考えるのは俺らしくはない。
どうしようもなく浮かれた俺と赤くなった恋人の手は火照っている。
21.09.24