深夜、蒲公英を探して


「バレンタインなんだけどさ」

ベットに腰を掛けて、頭だけを壁にもたれかかる。まどろみに抵抗するように言葉を発した。いま眠ってしまうことは嫌だった。きっと目を覚ましたら恵ちゃんはいないから。ひとり影が落ちた部屋にいるのはさみしい。
恵ちゃんはそんなわたしを無視して瞼をおろす。眠っていないのはピクリとはねた眉でわかりきっているのに。まあ、そういうところがかわいいんだけど。唸って寝返りを打つ恵ちゃんの誤魔化しを受け入れる。
間接照明の小さく優しい光をあびる恵ちゃんの横顔はかわらず綺麗だった。わたしも恵ちゃんも記念日やイベントに疎い。正確に言えば恵ちゃんに至っては関心もない。どうせ昔から本命チョコもらってきてあしらうのもうんざりしているとかそういうのだろう。
素っ気ない。つまらない。なんとなく指先を恵ちゃんの長い睫毛の陰影に添える。だんまりを貫くというポーズ。どうせ寝れない癖に。

「よるさん」
「なあに?」
「……アンタは」

手首をつかまれる。狸寝入りはもうおしまいか。

「恵ちゃんがわたしの寝顔を好きなようにわたしも君の寝顔が好きなんだよ」

鼻先と鼻先が触れるくらい距離を縮める。キスされて起きたらお姫様だけど、恵ちゃんは怒るだろうな。
残念ながら、わたしの大切な人はキスされたからといって起きてくれないし、寝顔が好きなんて言われて喜ばない。一般的なかわいげというものを見せはしない。理由は至って単純だ。隙がない後輩君だから。
かわいげのない恵ちゃんは不愉快だという感情をそのまま顔に一杯に載せて目を開けた。

「今日はよふかしだね、恵ちゃん」
「明日のことを考えたら俺も眠りたいところなんですが、厄介な先輩が眠らせてくれないんです」
「うわ、それは最悪だね。そんな先輩とは関係絶てば?」

恵ちゃんは瞬きをひとつする。生理的なものと意図的なもの、これは一体どちらだろうか。掴まれたままの左手をたどって恵ちゃんの指先がわたしの人指し指に到達した。赤い跡。緩く握りしめられる。
窮屈になってそのまま顔を背ける。視線から逃げるように壁際に逃げた。それでもわたしの左手の自由は利かず、選択は恵ちゃんに委ねられたまま。

「厄介ではありますけど、俺のこと考えてないわけじゃないから憎めなくて」
「そう」
「スカしてるところもあるんですが、そのくせに慣れない努力とかしてて」

恵ちゃんの言葉がいくつもいつくも連なっているのを聞いていたい。間接照明のような言葉でいい。太陽とか月とか海まで大きくなくて、掌の上とか机の上くらい良く見えるくらいがわたしにとって丁度良いの。

「そりゃ手放しで尊敬はできませんけど、そういう年上には慣れっこなんで」
「随分と入れ込んでるんだね」
「好きですよ。慣れないことして、火傷まで作ってくるよるさんのこと」

単純な好意の表明に苦笑した。まるでわたしにだけ都合の良い夢のよう。

「どうせ、厄介な先輩なわたしのこともすきでしょう」
「当たり前でしょ」

わたしのさみしさを洗い流すように、恵ちゃんが肯定する。至極当然という口調がうれしかった。わたしはかわいげなんてこんなものでいい。これがいい。恵ちゃんが一番だよ。じんわりと言葉を噛みしめて、なんでもないことみたいに「冷蔵庫にブラウニーがあるよ」と告白した。

「……は?」
「バレンタインでしょ、作っておいたのがあるの」
「手作りって、よるさんの?」
「そうだよ。真希でも棘でも憂太でもパンダでもなく、わたしがつくったよ。動画みながら」

マジかよ、恵ちゃんがつぶやく。むくりと身体を起こしてわたしの目をのぞき込む。真偽をもとめる恵ちゃんが可笑しかった。さっきまでわたしをなだめすかして眠る気だったひととは思えない。

「今日のよるさんは、なんていうか、都合がいいですよね」

心の底から吐き出したような言葉だった。感情がそのまま結晶になったかのように、小さくて研磨がたりていない。めずらしい粗削りなそれらにわたしは微笑む。
伏し目がちの気怠げな翡翠色に間接照明のオレンジが映りこんでいる。ふと、今日の半月のことを思い出した。恵ちゃんが言葉を付け足した。

「よるさんを責めたいわけではなく、これは俺に都合よすぎるって意味で、ですけど。……実はよるさんじゃなくて宇宙人とかいいませんよね?」
「すっとんでるねえ。いくらなんでも、それは負け惜しみが下手糞すぎる」
「冗談ですよ。普通に今後一切の希望を捨てているレベルですから、なんか、裏切られたみたいでムカついて」

恵ちゃんは舌戦には乗らず、あっさりと白旗をあげた。無関心。怒りのポーカーフェイスでの上塗り。表情にだけ不快を張り付ける恵ちゃん。いつもの見慣れた反応のどれでもない。珍しいこともある。わたしも恵ちゃんも。

冷蔵庫を覗いた恵ちゃんが「あ」と短い言葉を発する。タッパーをダイニングに置いてからわたしの顔を見た。訂正、ちゃんと喜ぶくらいのかわいげは欲しい。深夜の薄暗い部屋や妙な空気の中で、プラスティックの蓋のオレンジ色だけが鮮やかだった。

「あ、良かった。普通ですね」
「……ゲテモノを期待したの?」
「火傷ができるほどなんでどれだけ修羅場だったのかと」

要らない心配をかけたのはわたしではあるけれど、そこまでいわれると心外ではある。そこまで生活力は皆無じゃない。椅子に腰を下ろした恵ちゃんがブラウニーをひときれ摘まむ。底のアーモンドがひとつ落下した。

「恵ちゃんはさあ、料理上手なお姉さんに甘やかされたせいか期待値が高いね?」
「なんですかそれ。別に津美紀だってそんなプロレベルじゃ」
「そういうところだよ」

割り込んでまとめれば恵ちゃんも黙った。津美紀さんに甘やかされたことは悪くないけれど、彼女と比べられるのは困る。罪悪感がわたしのわき腹を蝕んだ。
わたしは善人ではないから、善人ではないなりに恵ちゃんの隣に座っている。

「これ、おいしいです」
「よかった」


深夜の食卓に沈黙が満ちた。それは決して異物ではなく夜に馴染む。不快ではなくさみしさと安らぎに結ばれている。このままずっと夜でもいいのに。
わたしもブラウニーを摘まんで、一口かじる。この時間を惜しんだせいで、とても小さかった。アーモンドはわかる。


「好きじゃなきゃここまでできませんから」

恵ちゃんはわたしからブラウニーを奪って、口に放りこんだ。照れ隠し。

「わたしも恵ちゃんが好きだからここまでするの」

自分でいっておいて、勝手に心臓が浮かび上がる。無重力。こんな安らぎのことを私は知らない。
わたしを満たすのも傷つけるのも、いつだって恵ちゃんが告げる『好き』だった。酸素だってなくしても恵ちゃんの「好き」だっていう単純な二文字がわたしを生かす。

だから、きっと、宇宙でもなんでも恵ちゃんさえいればそれで生きられる。

22.02.14