君の肺を満たす薄暮



忘れ物を探す夢を満た。天井を睨む。静寂が耳を割くようだ。任務から帰ってきてそのまま気を失うように眠ってしまったらしい。中途半端な姿勢から手をついて起きあがりながら、ぼんやりとベットサイドに置いた時計を眺めていた。思考は先程まで見ていた夢をなぞろろうとしている。大切な物、いや、もしかすると、物ではなく約束かもしれない。いずれにせよ、命とひとしいほどに大切ななにか。
瞼を閉じて、脳裏にイメージされた白い立方体、おそらくは記憶の箱らしきものを振れば、「恵ちゃん」そんな声がする。そうやって呼んだのは、誰だったか。そんな可笑しい呼び方をしてくる人はひとりいたはずだ。俺と華奢な小指を絡めたのは。「忘れても仕方ないから。恵ちゃんにはそこまで背負わせらんないし」気休めにしても下手くそすぎる慰めを言ったのは誰だ。空白、暗転、硬直。記憶を弄ってもなお、ぼやけた輪郭を前に手が宙を漂う。大切な約束をしていたはずだった、なにか大きなものに突き動かされるように俺の足は寮から遠のく。
先輩たちや五条先生、虎杖たち、誰ひとりとも会わなかったからそのままアスファルトに伸びる己の影を見つめながら、歩いて、はぐれもんの砂利を蹴飛ばす。それから、思い出した。視線はいつのまにか、黄昏に飲み込まれてしまいそうな駅の方角へ向いている。迎えに行く予定だった、よるさんを。



「あ、恵ちゃん。息上がってるじゃん、なんか飲む?あ、私が飲んでるコーヒーしかないけ、ど」
久しぶりにあうくせに、待ちぼうけをくらわされたくせに。ガラスから差し込んでくる斜陽に照らされたよるさんは、俺を見ると口元に笑みを浮かべる。そしてそのまま、悠々とした所作で挨拶をしてくるもんだから、俺はよるさんの手のひらから缶コーヒーを奪って喉に流し込む。
「……なんですか」
視線に耐えきれずに問えば、よるさんは軽く首を左右に振ってから、俺の頬を指で突いてくる。あからさまな子供扱いに思わず眉間に力がこもった。イラッとして行き場のない感情を、よるさんのつむじに押し込む。
「ちょ、いや、そんな喉がカラカラだったのかと思っただけだよ。そうだ、先輩がかわいい後輩くんになんか奢ってあげるね」
「要りません」
「うっわあ、愛想ねぇ〜」
頬をつつく手を掴んで「帰りますよ」と声をかける。ひんやり、としたよるさんの手のひらに思い出せなかったときのことを思う。この人はいつまでなら俺を待ってくれるんだろうか。空は暫し目を離しただけで、深い青が天球全体を覆い尽くすように垂れ下がっている。ジジジ、という音を上げて白い街灯は灯っていく様子をただ見守る。
「恵ちゃんさぁ、勝手にわたしの分まで不幸を背負わないでくれるかなぁ」
「は、誰も負担だなんて言ってませんが?」
「責任くらいは感じてるでしょ」
よるさんの冷え切った手のひらがぎゅ、と俺の手を包み込む。いつだって大切だというのはよるさんの方で、同じように手を離してしまうのはよるさんだった。今回は俺の落ち度であって、よるさんはただ待ちぼうけを食らっただけ、責められたって仕方ない。
「……責任ってよりかは、己の不甲斐なさを痛感してますが」
「ふは、なにそれ。かわいい後輩としては100点満点だから平気平気。恵ちゃんはいい子だから、よるさんがなんかひとつ、お願いを聞いてあげましょう」
「ガキ扱いかよ」
まるで恋人同士かのように手を握ったまま、先輩と後輩の図式を押し付けられる。そりゃそうだよな、と理解する。なぜならば、ここ、ぼんやりと街灯に照らされたアスファルトだからだ。誰の目でもロマンチシズムも、ユーモアも微塵も存在しないのは一目瞭然だ。ドラマのようなよるさん好みの舞台ではない。それでも、夜深まる中で、よるさんの黒髪は光を集めて瞬いた。つまりは、よるさんは。
「どうしたの?お腹でも空いた?」
なにも言わない俺の顔を覗き込んで問うよるさんの白い手はまだ冷えている。だが、ぎゅうと握り返すととどくん、どくん、と脈打つのがわかった。
「痛いんだけど、どういう感情表現なの……」
「生きてるなぁと思ってました」
「そうね、生きてる。そういうわけで、添い寝してあげてもいいよ」
どくん、どくん。規則的な脈拍に俺は笑う。なにがそういうわけで、だ。意味がわからないし脈絡がない。俺がそれを選ばないと思ってるのは、納得がいかない。だが、このまま一方的にいいように弄ばれるのは性に合わない。そうなると俺の返答はひとつで「じゃあそれで」と返した。
「その前にコーヒー、淹れてもいいですけど」
「……寝る前なのに、わざわざ」
「やましいことは何もありません。だたの添い寝です」
変なの、と呟いてよるさんは破顔する。夜の狭間から月が見えるような笑みに、最後のピースの形を思い出す。俺とよるさんは同じ歩幅で夜を横切る。どうやら、恵『ちゃん』じゃ、よるさんのことを大切にしきれないらしい。鮮やかな赤い車が俺たちの横をすぎていく。包み込む排気ガスの匂い、日常に染み付いた匂い。俺はよるさんと二人で過ごす、この空気がひどく愛おしいと思う。肺に満ちた排気ガスさえも、よるさんの隣ならなにか別なものに変えられるような、そんな非日常を夢想している。
交差点に差し掛かり、青信号を知らせる電子音に従って進もうとした俺の手をよるさんが止める。そのまま振り返れば、破顔した後の余韻のような曖昧な笑みを顔に残したまま、よるさんは「今回の任務さ」そう、切り出した。
「死ぬかもって思ったときに、恵ちゃんの顔が浮かんだ」
「俺が忘れてたことへの嫌味ですか」
「いや、なんでよ。これは、いま生きててよかったと思ったっていう話。人って心臓の音聞くとよく眠れるし」
「よるさん、文脈すっ飛ばすのやめた方がいいですよ」
「……はーい、善処するわ。つまりは添い寝はしてもいいかも、ってこと」
人には愛想がどうのこうのいうくせに、と怒りが湧いた。だが、今はそんなことよりも、死ぬかも、の言葉が肺を焦がす。いつのまにか信号機は黙って赤を灯している。進むな、入るな、死ぬぞ、この世界において赤は警告を孕んでいる。するり、と俺の手のひらからよるさんの手がすり抜ける。しばらく繋いでいたはずなのに冷えたままの手は死体を彷彿とさせた。
「だけどさ恵ちゃんは、いつまでも、大切な後輩でいてね。幸せなまま、冬のまま、正方形のまま」
よるさん。俺とアンタ、どんな約束をしていたんですか。
問いかけそびれた言葉は、喉から這い上がることもなく消えた。手が離れてしまう。そもそも先輩後輩でしかないから、手を繋ぐ理由などない。だが、そんなことを言ったらなぜ俺はよるさんを迎えに行ったんだろうか。離れた手を捕まえることができない。約束、どんな約束だった?
「これは有名なはなしだけど、黄昏ってのは誰そ彼、きみはだあれ、ってことだから、恵ちゃんは深く考えなくていいから」
青信号、また能天気な音が鳴り出すと、よるさんは俺の背中を押して、横断歩道へ押し出す。ちょっと、と抗議の声あげるとそのままお土産の入った紙袋を押し付けらえる。
「わたし寄るところがあるから、先に帰ってて」
「は?」
「ちゃんと恵ちゃんの部屋向かうからさ。待ってて」
「聞きたいことあるんですけど」
「後で聞くから、ね?」
有無を言わさず、勝手に告げて名前さんは姿を眩ませた。自分勝手がすぎる、と苦言を呈すがもう既によるさんの影はなかった。



考えてみれば、これはよるさんなりの意趣返しなのかもしれない。待ちぼうけ食らわされたからっって待ちぼうけで返すとかガキかよ、と思わなくもないが。どんな表情でも向こうの溜飲を下させるだろうな、と知りつつもせめてもの抵抗として無の境地で挑もうと決意した。ちょうどノックがされ、そのまますぐドアを開けた。
「うおっ、え、伏黒なんかめちゃくちゃ怒ってんじゃん、なにしたのよるさん?」
「んー、ごめんねぇ悠仁。まき込んだことは申し訳ないと思ってるわ」
「いや、俺は別にいいけどさ……」
明らかに挙動不審な虎杖とさっき消えたよるさんが言葉を交わすのをただじ見る。虎杖の方は俺をチラチラみて小声でやばいって、と繰り返すがよるさんの方はいつも通り、飄々とした顔で「お待たせ」と俺に返した。ふざけてんのかこの人。添い寝してやるって言ってたのはどの口だよ。
「悠仁おすすめのB級ホラー映画借りてきたから見ようと思って」
「……虎杖、オマエもか」
「いや俺は別に遠慮しても全然いいけど」
「じゃあ観ていきなよ、悠仁が一番楽しいんじゃないの?わたし映画とか詳しくないし見たことロクにないから」
「いやいや家主?部屋主?の許可とかさぁ!ほら!な、伏黒!」
よるさんに今にも押し切られそうな虎杖に、俺は大きくため息をつく。脱力した身体を壁に預けて、よるさんの表情を伺う。何を考えているかわからないから、俺は諦めて虎杖に「上がりゃいいだろ」と声をかける。
「虎杖もコーヒー飲むか」
「お、おう。じゃあ、お言葉に甘えて……」
「なに畏まってんだよ、いつも通りでいいだろオマエ」
「いや、その、俺、めちゃくちゃおじゃま虫じゃない?平気?」
虎杖の声は小声になる。おそらくはよるさんに遠慮しているんだろうが、こうしたかったのはよるさん本人だ。俺と二人っきりになれば質問があると踏んだのだろう。そして俺のしたい質問というのはただの先輩後輩でいたいよるさんには不都合なもの。
「虎杖が気にすることじゃねぇから普通に映画観ればいいだろ。これは俺とあの人の問題だ」
ヤカンに湯が湧いたからどけ、と虎杖を向こうへやってインスタントコーヒーの粉を入れたカップに順繰りに湯を注ぐ。ぐるぐるとカップの中を回す。白い泡が表面を覆い尽くしていくのが、よるさんに似ていると、思った。
「恵ちゃん、持っていこうか」
「じゃあその青いカップ持っていってください。多分よるさんのやつなんで」
「……なんでそう思うの?」
俺が使うマブカップよりも少し小さいそれが、よるさんのものだという記憶はない。訝しむよるさんに、喉が渇いてもないのに自分のマグカップからコーヒーをひと口含む。熱くて味はわからない。
「そんな気がしただけですよ」
直感?身体が覚えていた?どれもしっくりこない。様子を見た感じではよるさんの目にも新しく映ったらしい。息をコーヒーも水面に吹きかけもう一口、コーヒーを飲む。苦味が広がる。虎杖の分も持っていこうとよるさんに背を向ける。よるさんに聞きたいことはたくさんあるが、きっとそれはいまじゃない。問いかけたところではぐらかされるなら、徹底的に調べ上げてからと決めた。
「覚悟しといてくださいね」
「いやなにを?」
インスタントコーヒーと同じだ。泡に隠されようとも、味はレギュラーコーヒーとなんら変わりなくコーヒーである。おそらくは、そんなところだろう。

21.01.15