明日のこと、世界のこと
雨か。
耳が音を見つける。窓や庇をたたく音を異物として認識したのも一瞬で、すぐに空気になじんだ。コーヒーを注ぐ音。カップをソーサーに戻す微かな音。店の正面を通り過ぎた車のエンジン。雨雲の分暗くなった室内では徐々に電気が灯り始める。白熱球のオレンジ色だった。
文庫本に収まる文字から視線を上げて、よるさんの伏せられた目を見る。
面倒くさい、厄介。手放しで尊敬できない先輩、堂々の一位。視線に気づかれない程度によるさんを眺めた。ずっとこうやって、黙っていればいいのに、と思う。もう数えるのもやめた思考回路をなぞった。画面を見つけたよるさんが、垂れた髪を耳にかけ直す。瞬きを数回繰り返す。アイスティーのグラスに刺さった真っ赤なストロー。よるさんの視線が窓の外へ向く。うっすら色付いた唇が緩やかに上がった。ストローに手を添える。全部わかっているとでも言いたげな瞳。
「恵ちゃん、さっきから見過ぎ」
「自意識過剰ですよ」
「どーだか」
俺はコーヒを一口飲んだ。つられてソーサーが動作につられてわずかな音を立てる。合図だったかのように、その音だけで沈黙が戻った。よるさんは俺を見て微笑んだまま。けれども不快なものは何もなかった。何一つとして。視線も沈黙も。
喫茶店の中は丁度良い。穏やかなここは初夏の波打ち際だとか、雨上がりの湖畔だとかが似合う晴れやかさだった。無理のない空気。淀んでいない適切な空間。小学生のころ、放課後に国語の教科書の授業で扱わない文章を読んだ日のことを思い出した。
「いま恵ちゃんが何考えてるか当てよっか」
「当てなくていいです」
俺の言葉に、そう、と相槌を打ってよるさんもう一度視線を外に向けた。俺もよるさんも黙る。俺は口数が多い方ではない。それは誰が相手でも変わらない。
対するよるさんの言葉は大抵こちらを茶化すことばかりだから、俺が受け入れれば不都合はなかった。
これが原因で、釘崎がややこしいと批判し、虎杖は冷やかしを口にする。わかっている。それでも、ふたりきりの沈黙という日常を手放す気など毛頭ない。だって、俺はその時間の空気が嫌いじゃないから。否定文ばかりで困るが、それぐらい曖昧な「好き」だった。よるさんのあの独特な雰囲気が肺に満ちていく。秘密。窓に映ったよるさんの像と目が合う。水滴がついた窓ガラスのせいで表情がわからなかった。
「あ、恵ちゃん。わたし明日からしばらく任務入った」
「へぇ、気をつけてくださいね」
「反応鈍いなぁ。……今日は土曜日だけど、どうしたい?」
よるさんは窓から俺に視線を向ける。なんでもないことのように。じっと見つめられ、俺も開いていた文庫本を閉じる。栞を挟まずに閉じたのを見て、よるさんはいいの?と首を傾げたが「別に」とだけ返す。
「もう質問し尽くした?」
「これ以上聞いても答えてなんてくれないでしょ」
「スリーサイズなら答えられるよ。この前ちょうど野薔薇に誘われて新調したから」
「馬鹿ですか?ああ……馬鹿か……」
自分の発言に理解が追いついて、大きなため息をついた。よるさんといるとため息ばかりになる。黙っているときは本を読むには丁度いいのに、一度口を開くとろくでもないことしか言わない。そういうところがある。
だからよるさんの目の前で尊敬の言葉なんて浮かんでは来なかった。でも別にそれで終わるような関係ではないし、別にこれでいい。
「雨降ってきましたけど、傘持ってますか」
「持ってない。近くのコンビニで買ってこようか?」
「パシりたいとは言ってないですよ」
気が利くのか、阿保なのか迷う言動に不快感が表情に出た。ワンテンポおいて、口の中を湿らせる。恥ずかしいことをいう自覚があったから、なおさら。気乗りしないが、でも、この人が風邪ひいて、面倒見させられるのなんて御免だから。これは、俺のエゴだ。
「……帰るとき、雨止んでなかったら。俺の傘、入っていってください」
「かわいい後輩にお願いされたら仕方がないなあ」
「お願いじゃありません……ちゃんと聞いてました?」
「じゃあ、何?」
逃げ場はない。自分はすぐにのらりくらりと逃げ回るくせに、すぐ他人にはそれを課す。よるさんらしい手だった。どうせこの遊びに付き合うほかすべはない。白旗代わりに「まじで面倒臭せえ」とだけぼやく。
「……雨止まないといいね」
一ミリもそんなこと思ってないくせに。咎める言葉はコーヒーで胃の底に落とす。地獄じゃないだけきっとマシだ。雨はまだ止まない。4時を知らせる時計の音がしても、俺たちは向かい合って座っている。そうやって、聞こえないふりをしている。
今日が終わらなければいいと思うのは、おそらくお互い様だった。
「恵ちゃん」
俺が何ですかと問うより先によるさんが告げた。おくれ毛を耳にかけて、手元は不自然に左の薬指に帰着した。撫でながら、いつも通りの顔をしたよるさんがいる。
「今調べて分かったんだけど、帰る予定の日も雨だって。だからさ、迎えに来てよ」
「……いいですよ、そのぐらいなら」
「ほんと?べつに無理なら来なくてもいいからね?強制じゃないから」
「そっちから言ったんでしょ。別に行きますよそのぐらい」
微笑む。柔らかな、暖かい微笑みだった。時々見せる子供みたいな表情。ずっとそういう顔していればいいのに。
「あはは!じゃあ、約束ね」
「……一応言っておきますけど、先に勝手に帰ったりしないでくださいね」
「しないよ、絶対」
次に目が合った時には余裕綽々とした愛想笑いに戻っていた。しないって、どうだか。いつもの愛想笑いは信用できない。底にたまったコーヒーを飲み干した。帰りませんか。誘い文句を口の中で唱える。唱えるだけだ。結論から言えば、今日も俺は言えなかった。
「わたしがいなくて、そんな寂しいなんてねえ……あ、そーだ、今日一緒に寝てあげようか?」
ため息をつく。愛想笑いのままの言葉を信じるほど俺は素直じゃない。飲み干したコーヒーカップの持ち手を指で弾いた。生憎、俺はお行儀が良い方じゃないんですよ。忘れたなんて言わせませんけど。
「約束したってどうせ逃げる癖に、よく言いますよね」
「じゃあ指切りしようか。恵ちゃんのためなら誠実でいてあげましょう」
「ガキ臭……」
「いーからいーから、ほら、小指出して」
よるさんの白い手が俺の小指を捕まえる。小指同士が絡む。抵抗する気も失せて、よるさんに視線を向ける。お好きにどうぞ、の意を受け取ったよるさんが懐かしいまじないを歌う。
「ゆびきりげんまん嘘ついたら針千本のーます」
22.03.07