今ならえいえんを上手く交わせる


 太一は、ひとのやわっこいところにするりと入り込むのがうまいやつだった。高校三年間、セピア調の曖昧な日々。
 楽しかったといえば楽しかったけれど、受験のために様々なものを捨ててきたから、教室の輪郭も人の表情も塗りつぶされてしまった。だからなのかな。川西太一、かわにしたいち、ただその七音だけ。それだけが私の三年間の記憶のなかで生き生きとした色彩で飾られている。多分、高校生の私のすべて。
 宝物と宝石の違いは何だろうか。
 聞いたことのあるようでないような問いかけ。授業でそれを聞いたとき、私は高校一年の古典でみた青いうつくしい春色のことを思い出した。弾かれるように、私は窓からみえる空を確認した。四月の空は柔らかな青。僅かに見える枝の先の桜。私を見ていた太一の鳶色。彼は決して私の‘‘もの‘‘なんかではなかったけれど、間違いなくわたしにとって川西太一は宝物そのものだった。
 「ねぇ、みんなは高校時代の友人とどれだけ連絡とってる?」
 そんなことを大学の同級生に尋ねようとするたびに、そんなこときいてどうするんだろう、という疑問だけが残ってしまう。結果、大学四年の今日になってさえ、未だ太一への未練ばかりを募らせていた。
 女子大だから新しい出会いで太一のいない穴を埋めることも叶わなかった。いや、正確に言うなら、彼氏も親友も作らなかった。私は自分で思うよりも川西太一という男の子のことが好きだったらしい。
 川西太一。
 たった漢字4文字と13桁の番号だけがいまの私の太一の全て。
 一緒に写真を撮ったこともないし、トークアプリはあまりにうすっぺらでミルクティーと食堂の位置しかない。どうしてもっと形に残るようなことをしなかったんだろう。画面の上を指がぐらぐらと彷徨う。でも、太一だって私からの連絡をまってるかもしれない。試さないでびくびくおどおどしているのは、私の性に合わないでしょう。
 思い切って川西太一、の文字をタップしてスマホを耳に当てる。
 心臓を落ち着けようとコール音を数えた。いち、に、さん、よん。けれども、心臓はずっと私のものではないかのように好き勝手に暴れ狂う。お願い、太一。今すぐ電話口で『実は俺も同じように思ってたよ』って言ってよ。お願いだから。ご、ろく、なな。壁にかけてある丸い時計へ視線を飛ばす。短針は11と12の間を指し示している、ああ、そうか、家にいないのかな。バイト中とかかな、ゆっくりと腕から力が抜ける。とにかく、なんでもいいから留守電を入れよう。なんていおうか言葉を吟味しているうちに、非情な電子音が告げる。
「現在この電話番号はお使いになっておりません」
 私は川西太一という人間について、全く知らなかったんだな。あんなに側にいて、ばかみたいなやりとりをしたのに。なにもわかっていないのに、わたしはぼんやりと明日のことを考え始める。起きる時間、読む本、バイトの時間、お昼。
 ああ、そうだ。
 花を買おうと思った、春が終わってしまう前に。



 春がまたやってきた。春というその事実だけでばかみたいに浮かれて、やっぱり私は川西太一の電話番号をタップする。当然ながら返ってくる電子音は変わらない。
 私のなかで、もはやそれは電話番号というよりはちょっとお手軽な御守りのようなものになっていた。一年たつけれど、残念ながら太一からの連絡はない。そもそも私は太一は東京へ進学するってことしか聞いていなかったから、電話番号が消えるとぷっつりと縁が切れてしまう。
 人の縁とは奇なり、とはよくいったものだ。ほら、最後の春の日は恋人みたいな距離だったのに、こんなにあっけない。あの日に帰れるなら、太一と私の間にはなにも残らないって教えてあげたいよ。
「これからどうする?なまえもおいでよ、半年ぶりじゃん!」
 大学の時の同級生が破顔して私の元へ駆け寄る。それを笑って受け止めて、かわいらしい彼女のレースのスカートの影を眺めた。
 彼女とはまたじっくり遊ぶ約束をしたい。高校三年間、太一と鎖国生活をしてしまったがために、大勢のところはすっかり苦手になってしまったな。あれでも最初の方は頑張ろうとしてたんだっけか、慣れないことをするものだからすぐにメッキは剥がれ落ちたけれど。
 大好きでかわいい彼女へ、うん、遊ぼう!と返すだけでいいのに、私の口からはするりと違う言葉が出た。
「ごめん、私このあと用事があるの」
「え、なに?彼氏!?」
 微塵も男っ気ないなまえが!?と目を見開く彼女の口を押さえる。初恋を悼むための花を買ったことがあるばかりに微妙に反論しにくい。「違うから……」弱々しいながらもそう返すのがいっぱいいっぱいだった。
 ぱちぱち、と彼女が瞬きをして、話の続きを待っている。今年はまだ白いライラックを買っていない。
「そうじゃななくて。ええとね、花屋にライラックを買いに行くの」
「ライラックって……花?」
「大切な用事だからごめんね、また今度誘って」
 これ以上根掘り葉掘り聞かれたら合コンでもセッティングされかねないので、じゃあね、と手を振って会話を終わらせる。ライラックとあとなんの花がいいだろう。
 花屋を覗くと、白と紫の艶やかな花房を見つけた。
 ライラック、リラの花。
 いくつも重なった小さな花たちがかわいらしくて、思わず頬が綻ぶ。
 ライラックだけでもいいけれど、せっかくならブーケにしたい。他の花を見ようとガラスの扉を押す。けれど、私の足はその場でぴたりと硬直した。もう、どこにも行けないんじゃないかと思うほどに、思考が白く染め上がってそのままばらばらと崩壊していく。そんなイメージ。
 それほどに、目の前にある背中に既視感を覚えていた。
「太一……?」
 白いシャツを着た背中が振り返る。少し大人っぽくなった顔が、変わらない鳶色が、私をとらえた。薄暗い店内のなかは校舎裏によく似ている。
「なまえ、久しぶり。花買おうと思うんだけどさ、なまえはどれがいい?」
 世界で一番綺麗なものを寄せ集めたって、きっと敵いっこないわ。太一が私の名前を呼ぶだけで、なまえという音は宝石だとか花に生まれ落ちる。ああ、太一だ。動けない私の右手を太一が包み込んで、「俺、花とかわかんないんだよ」なんてのたまう。
「ら、ライラック。紫のライラックがいい。太一には紫が似合うから」
「うし、了解」
 恋人みたいにぴったりと手のひらをくっつけて、太一は店員さんを呼ぶ。いろいろ言いたいことはたくさんあるのに、何も言えなかった。ぽっかりと空いていた穴が綺麗に埋まったのがわかってしまう。ああ、どう言えば伝わるんだろう。
 会いたかったんだよ、太一。
 泣きそうな顔を見られたくなくて、太一の背中に顔を押し付ける。ファンデーションとかついたってもう知らない。
「聞きたいことはあると思うんだけど、ちょっと付き合って欲しい」
「え、それは。あの……どこいくの?」
「はは。秘密〜とか言えたらいいんだけど流石にそれはアレだから止める。で、白鳥沢に、不法侵入しにいく」
「……嘘でしょ?いやまぁ、卒業生って言えば入れるけど」
「ん〜いや、白鳥沢っていうか、俺の忘れ形見を掘り起こしに行こうと思って」
 掘り起こしに、という割には太一の手にはブーケだけだ。そのほかには一本だけペットボトルが入りそうなボディバックくらいだ。スコップなんてどこにもなさそうで、私は太一の横顔を見上げる。いまここで聞いてもいいのだろうか。
「何で連絡取れなくなったの?びっくりしちゃった」
「実は、大学一年休学してたんだよね。その、いろいろ思うところがあって」
「……そっかあ」
 いろいろ聞きたいことも、話したいこともたくさんあったはずなのに、太一の手のひらの温度に感情が全て溶けてしまう。説明もなくまた消えてしまうかもしれないのに。
 なのに、ほら、私たちはまた会えたから全部神頼みしてしまいそうだ。春の風で前髪が乱れることすら、もう、幸せのカタチに見えてしまった。ばかみたいだね、私。夢なんじゃないかって思うけど、太一の手が暖かくて間違えようもないや。
「なっつかしいなこの道!太一は寮生だから懐かしくないかもだけど」
「うん、そうなんだよね。……あ、正門だ。警備員いるよなぁ、そうだよなぁ」
「普通に卒業生って言えばいいでしょ?何でダメなの」
「……こんなでっかい花束持ってなにしにきたんだって聞かれたら俺は死ぬ。羞恥で」
「ならなんで花束を……」
 太一は私の問いかけにはブリキのおもちゃみたいにぎこちない所作で視線を逸らす。それでも、私がじいっと見つめると小器用に口笛を吹く。
 太一らしいごまかしが見えて、耐えきれなくて吹き出してしまった。大人っぽくなったのに、結局、どこまでも太一だ。よかった、私がすきだった太一は生きている。
「抜け道行くんだけど。その、なまえも来てくれるとうれしい」
「ここまで来たら一蓮托生ね。このまま一緒に行こっか、なにするかは知らんけど」
「難しいことはないから」
 秘密の抜け道は想像よりもあっけなく見つかった。そして、誰にも気付かれないように入った母校は、私たちが卒業したころとなんら違いは見つからない。
 ちょっと立て付けの悪い窓も、薄暗い校舎裏も、ペンキの剥げた位置も。懐かしかった。勝手に遠くに思っていたけれど、そんなことはないみたい。
「この辺かな、ああ、そうだ。階段あるし」
「……ここがどうかしたの?太一のクラスではタイムカプセルでも埋めてたの?」
「だったらクラスメイトと来るだろ」
「それは、そうね。あれ、じゃあ私に関係すること……?」
 太一が立ち止まって、私の手のひらを離す。まだ、もうちょっと繋いでいたかったけれど、私たちはなんでもないから、なにも言えなかった。私の皮膚からゆっくりと太一の温もりが消えていく。
「覚えてる?ここで、俺となまえは良い関係になれる、って言ったこと」
 太一の鳶色は宝石のように綺麗だったけれど、でも、太一はやっぱり鉱石ではなく一個の人間だった。私の知っている人で、でも、4回も知らない春を越えてきた人だ。けれど、湿った空気が肺を満たしていく、この感覚だけは覚えていた。鼻をつく、ドクダミと苔の匂い。
「……うん、覚えてるよ。あの日から、私と太一は一緒に行動するようになったよね」
「あれさ、俺がいま訂正してもいい?」
 太一がボディバックから角がまるくなった文庫本を差し出す。タイトルは、星の王子さま。表紙の隅にはうっすらとコーヒーの染みがついている。本からはみ出ている栞紐の端っこはすっかり解けている。
「俺となまえは、友達としても恋人としてもうまくやってけると思う。それで、俺は、なまえと恋人になりたい」
 本を受け取る。
 小さな賭けだった、太一ともう一度会うための。視界がぐらぐらと揺れて、目頭を押さえる。熱い、どうすれば良いかわからない、涙が落下する。今すぐ涙を止めたくて強く目を瞑れば瞼の裏で幾重の光が弾ける。
「……わ、私は、太一の特別になりたい」
 たったふたりきりの世界を壊すことばかりが怖くて、私はずっと逃げてきたんだ。むかし、白布が言ってたな。正直に伝えるしかないだろって。
 にゃあ、猫がなく。
 お、太一の関心は猫へ移ってしまう。それからふと、昔も猫がいたなぁと思い出す。あの子はどうなっただろうか。見守る私と反面、太一はもごもごと猫のお腹のあたりを弄って、あ、と声を上げた。覗き込むと、真っ白なお腹があるだけ。あの、変な模様がない。
「ということで、名前はロドリゲス2世に決定〜」
「え!なんで?どうして?理解が追いつかない!」
「惑星B612の支配者、神様みたいなものだから」
 太一の解説を聞くとさらにわからなくなって、頭を抱える。そんなわたしを置き去りにしたまま太一は、猫と戯れている。
「あと俺はさ、薔薇とかの花粉は普通に平気。花とか植物とかオールオッケー」
 傍に置かれたライラックの花束を見る。紫のライラックと、白い薔薇。
 ああもう、太一。
 ばか、嘘つき、違う、全部言いたいことじゃない。
 かつてコートの中にいた鳶色の太一が実生活に本格的に乗り出したってことだ。長く息を吐く。
「…………言いたいことは山ほどあるけど、まず、まず星の王子さまに猫も神様も出てこないでしょ……どういう意味?」
茶目っ気たっぷりに太一の目がきゅっと細まる。
「ほら、春だからね」

21.0210