あなたでは硬度が足りないみたい


 川西太一というやつは、いつだって私の心の柔らかなところへするりと入り込むやつだった。いつのまにか、私の世界を彩るには欠かせない人になってしまった。けれど、そんな日々のことを伝えようとしても、白布以外には伝わらないことに気がついた。それは単に、川西太一という人間に、深く関わり合おうとする人間はわずかしかいなかったからなわけだけど。
「白布は太一がどこに進学するか聞いてないの?」
「……万一俺が知っていたとしても、太一からおまえが特に何も聞いてないんなら言わない」
「ご丁寧にどうもありがとうございます」
 悪い奴じゃないけれど、踏み込む前に一本ボーダーラインを引いていくような、そんな雰囲気さえ持っていた。けれど、今はそれが勘違いだったことを知っている。
「大事なことなら待ってれば太一の方から言うだろ」
「うん、まぁ、それはその通りなんだけどさ。気にはなるというか……」
「気になるか?」
「とても」
 手元の本に落ちていた白布の視線が上がる。
「太一の特別になりたいって言えばいい。簡単だろ、なんの定理も公式も要らない」
 背中に向かって太一の名前を呼ぶだけで、彼は振り返って「なまえ」と世界の全部の綺麗なものを並べた音を立てる。太一の隣にいることは、春の空を見上げることと同じぐらいに大好きだ。そんなことを白布が聞いたら、いい加減素直になった方がいい、と助言するに決まっている。それでも私はそれを笑って流した。だってどうしようもないじゃない。卒業式の後でも校舎裏は湿った空気で満ちていて、コンクリートと土と空と太一だけの簡潔な楽園だった。
「なまえ、待った?」
「大丈夫だよ、全然待ってない。ウチのクラスがスーパードライなだけだよ」
「それもそうか。なまえ、ほい」
 ひょっこり顔を出した太一が、私へ花を差し出す。まるで、プロポーズとか恋人みたいだな。そんなことを頭の端っこで思う。けれど、愛の言葉などどこにもないことも十分理解して、一輪の花を受け取った。顔の8割がマスクに覆われている。その向こうからズビ、と苦しそうな鼻息も聞こえてくる。太一は花粉症だから、花がダメ。だから卒業式のお花は私がもらう。前から二人の間で取り決めていたものだから、今ときめいたところで完全なる空振り。
「親と合流しなくてもいいの?」
「私は毎日顔合わせてるし、今日帰ってから盛大にやるんじゃないかな。それより太一はよかったの?」
「いいよ。なまえとか白布といる方が楽しいから」
「そっか、お年頃ね」
「うるせえよ。つーか、なまえは花多くない?一人だけ花束になってんじゃん」
「後輩たちが押しつけてきたかな……まぁ嬉しいから貰った。太一にはごめんだけど」
 私の手に溢れるこの花は、全部、あまりもの。けれど、それが幸せかも。なんだよそれ、太一はわらって、でもそれから堪えきれずにくしゃみをした。花粉症の彼のために一輪の花も花束にまとめてみる。
「ちょっと遠回りして帰ろ」
 お手ごろな春を空に掲げる。一歩、二歩。離れてから花束を太一の方へかざす。かわにしたいちくんの今日までに花丸、百点満点。来年もがんばりましょう、なんちゃって。ひとり笑みを浮かべる私を太一はまじまじと観察する。
「遠回りすんならこっちの道行こうぜ、今日で終わりだし」
「行ったことあんの?」
「ない、いや、嘘。あるかもしれない」
「よし、乗った。行こう!」
 一緒に駅へ向かうなんて初めてで、たったそれっぽっちのことが名残惜しい。わずかでもそう思ってしまえば、太一からの誘いに乗っかる以外の選択肢が見えなかった。
 私の勢いに、ふ、柔らかな息を太一が吐いた。もしも、この瞬間に言葉が全て石に変わったならきっと、私たちの言葉は小学生の大好きなまんまるな石っころなんだろうな。とりとめもないことばかりが浮かんでは消え、太一の背中ばかりが眩しい。
「この道曲がって〜、お、坂あるじゃん登ろうぜ」
「坂あったら登らなきゃ気が済まない生命体?」
「練習のときアホほど走ったから地味に反論しにくいな。ともかく、へばってんじゃねぇぞ、なまえ」
「うるさ〜〜い」
 抗議を口にする。太一が振り返る。そのタイミングがなんとも秀逸でおもわず、顔を見合わせて笑った。ああ、一体いま私たちは何が面白くてこんな風に大口開けて笑ってんだろ。自然と前を歩いていた太一の手がするり、と私の左手を包み込んだ。同じ歩幅で坂を登る。息を吸う音が重なる。ばらばらに生きていた影がひとつの生き物のように揺蕩う。真っ直ぐ上を目指す。
「うっわぁ、もうすっかり夕方じゃん」
 青空はもうどこかへ旅に行ってしまったらしい。絵の具のチューブを水で薄めたようなオレンジ色が空から、校舎や校庭を塗り上げている。この世界で一番遠くまで届く色。私の手の中のおおきなブーケでさえも、うすくあかね色に染め上がっている。太一とあの日、会わなかったらこんな場所があるなんて知らなかった。少し冷たい風が汗ばんだ額を撫でて、肩と毛先を擦って流れていく。
「……そういえば、太一と私が仲良いの意外って言われたな」
「まぁ、俺はずっとバレー、バレーバレーだったし。勉強も行事も白布なんかと違ってボーッとしてたからな」
「うん」
「即答ですか、さみしーなあ」
 私は太一のそんなところに憧れてるんだよ。古典の授業ではゆったりとした瞬きを繰り返しているくせに、コートの中では真っ直ぐ、淡々と情報を処理していく目。糸をピンと張り詰めたような緊張を纏う川西太一の鳶色は、最高に格好が良かった。でも、この答えはこの夕陽の中へ閉まっておこうかな、だって春だから。世界が終わるときまでには気づいてね。
「……生きていくのって多分難しいんだよ」
「ん〜どうだろ。意外と、意外と、単純な仕組みだったりするかもよ?」
「そんなこと言うなら太一が教えて」
「俺寒いのダメだから、おこたあればいーよ」
「全然意味わかんないからねそれ。まぁでもいつか機会があればね」
「マジ?ぜったいな」
「約束しても構わないよ?」
 途端に冬の空気が鼻をつく。4月から太一は東京の大学へ、私は仙台の女子大へ進学するから、約束だけは気軽なものではなかった。
 今日の私は太一のことばかり考えているけど、一年後の私が太一のことを考えているのかは、自信がない。今ここで太一のことを言葉で、約束で、縛ってしまえたらどれだけいいだろう。私のことを忘れないで。そんな子供みたいな願いが物質化できるのならよかったのに。そうすれば、ただの石っころだとしても私たちの間で価値が生まれるはずだ。
「約束か……なんだよ、ここにタイムカプセルでも埋めるとか?」
 卒業式、すっかり普通の道から逸れてしまった私たちは手を解く。あまりもの、成り損ない、足りないものだらけ。
「それよりもずっといいものがあるの。これとかどう?」
 暇つぶしに待ってきていた文庫本を太一へ差し出す。太一が表紙に印刷された星の王子さま、の文字で硬直した。私たちの始まりは落書きだった、私の下手糞な落書き。意図をくみ取ったらしい太一はゆっくりとひとつ呼吸をして、頷いた。
「……わかった。じゃあ記念になんか飲もうぜ」
「近くに自販機ってあるの?」
「さあ?近くにコーヒーしか出さない喫茶店ならあったと思うけど」
「私コーヒー苦手なんだけど……」
  いつかの春の日と同じ匂いがする。じめじめした土のにおい、付近にはコンクリート。あの日と違うことといえば空の色くらいなもので。
 数年後のいまだからこそいえる話ではあるけれど、聞いてくれる?ねぇ、太一。あの一瞬だけは私たち、まるで恋人みたいだったね。もしかして、と思ったけれど怖くて言えなかったの。
 記憶の最下層にしまわれるものが香りだというのなら、私がこの世で最後に忘れる奴は川西太一に違いなかった。今じゃ真っ白なライラックと太一が結び付いて消えない。春が来るたび、膝丈で揺れるスカートを見るたび、肺の奥がいたくなって、頭の奥では彼の掌がよぎる。けれど、あの日見た大好きな青い春色は忘れてしまった。
「どうしたの?」
 朗らかな声に我に返ってごめんごめんと、カメラを構える。フレームの中、駆け抜けた三年間が私から一秒を奪うけれど、そんなことをけどられぬようわらいながら「はい、チーズ」とシャッターを切った。

21.0210