来世のために死んだふり

 仮初めの春でいい。いっそのこと全て嘘ですらいい。今日はすてきな春だと言ってほしい。ずっと笑っていてね。どう考えたって、あなたの人生はわたしがいなくても困らないけど。それなのにわたしはあなたの手が愛しいの、許して。それでも、この感情は恋ではない。
でも恋って呼ぶのは許されるかなあ。許されたいのはわたしだけならごめんね。曖昧な音。滲んだ色。結局手のひらは空っぽ。

 陽射しだけは真っ白で、心臓に降り注ぐ音はばかみたいに大きかった。わたしは手を伸ばす。行くあてのない右手は天井からぶら下がったペンダントライトの円周を人差し指でなぞる。
 心臓のカタチが似ている片割れ、嘘、世界で一番遠い他人。あなたの考えてることなんて一ミリも理解できないのに、わたしはあなたに触れたくて仕方がなかった。あなたもそうだとわかってるの。おかしいよね。笑っちゃうよね。

 閉めきれなかったカーテンから細く光が漏れている。ひとり、起きてしまったせいで、てもちぶさただったから視線を順繰りに巡らせていく。ブラウンのフローリングに走る美しい光。ステンドグラスのなり損ない。うっすらレースカーテンの模様がシンプルなフローリングに陰影を添えていた。そんなきれいな今日から逃げるみたいに背中を丸めたあなたの背骨。
 寒くないの?と聞いたけど生返事しか帰ってこない。呼び慣れた「タカ」という名前を呼んで見る。それでもあなたは振り返ってはくれなかった。たぬき寝入りが下手なのははじめて知ったよ。
 あまりのそっけなさに指がシーツを滑るけど、近頃のことを思うと強く言えなくて。だからわたしは仕方ないなあって、わたしの胸元を覆っていたタオルケットで彼を包んであげた。
 これでもわたし、あなたより年上だからね。



 人生でたったひとつだけ、決めていることがあるの。わたしは、ユズハに笑ってもらうために生きていくって、そういう小さなもの。指切りですらないような、吹いたらどこか遠くに飛んで行ってしまうくらいの。軽いくせに人生の楔としては十二分だったから、わたしはそれでいい。ううん、それを選びたかった。
 ユズハがきれいに笑ったら、アイツも笑ってくれればよかったのに。何年経っても同じことばかり。わたしは、笑ってくれるんじゃないかって、思ってたよ。ね、八戒、アンタならわかるでしょ。
 みんな涙で袖を濡らさずに、この部屋に沢山の笑い声を閉じ込めてしまえば大団円を迎えられたのだ。誰も痛くない方法があったはず。

「わたしは多分、一生許せないよ」

 絡めたつもりの視線は冷たい。上から見下ろされて、アイツがぎゅっと右手を握りしめるのが見えた。おのずとわたしの喉から乾ききった笑いだけが込み上げる。困った時ほど、笑ってしまう。言っておくけど、困ることなんてアンタが泣きそうなときしかないんだから。
 何か言ってよ。ごめんとか、馬鹿言うなとか、もっとそんな、なんだろう、わからない。でも、何かを言って欲しかったの。名前を呼ぼうとして、空気が詰まってむせた。視界が滲んで、そのまま視界は白んでいく。

 今ここに青い朝が来たら、アンタはどうするのかを知らない。大寿。音にならない。大寿、ねえ、大寿。何一つ音にならず、アスファルトの隙間に落下した。

 わたしの腫れた頬を見た瞬間ユズハが硬直する。駆け寄ってくる彼女をわたしは抱きしめた。暖かくて、震えてた。わたしの分まで泣いてくれてありがとう、でも、わたしはユズハに笑ってほしいの。わたしは、ユズハの笑った顔がだいすきだから。それに、ユズハが笑ってると八戒は笑うでしょ?そうしたら、わたしもうれしいから。他の誰だって責めないし、世界中が嬉しいに決まってる。……アイツはもう、違うのかもしれないけど。

22.07.12