感傷は感情じゃない

「迎えになんて来なくていいのに」
「八戒が心配してたししかたねーだろ。ユズハもいたし、つーか、アイツら家に帰したらオレがいくしかねえの。いつもそうだったろ」
「わたしの問題に巻き込みたくはないんだってば」
「白樺、流石にソレは今更すぎ」
 無免許のバイク、ヘルメットを首に引っ掛けて、三ツ谷くんは馬鹿だな、と笑った。それがあまりにも様になっているから、なんとなく八戒の気持ちがわかる。いつだって神さまは世界の配分が適当だ。そうじゃなきゃ、こんなアンバランスで、ズルくて羨ましい男、生まれっこない。わたしは、あなたの爪の垢でも煎じて飲むしかないのかな。
 問答無用と言わんばかりにヘルメットを頭から被されて、顎のベルトまで三ツ谷くんがカチリと嵌める。
 生活に浸り切った三ツ谷くんの手。その手を見て、今度、ルナちゃんとマナちゃんを誘ってドラックストアへ行こう、と決めた。

「三ツ谷くんアリガト、助かった」
 ペットボトルのミネラルウォーターを差し出す。濡れた側面も、わたしが口をつけたものであることにも何も言わずに、そのまま彼は受け取る。
「どーいたしまして」
 白樺って雑な、と笑ってから三ツ谷くんはぐいっとペットボトルを呷った。それはこっちのセリフってことにならないかしら。間接キスだってことはお互い分かっていた。
合わない視線が気まずさを語っていたけれど、やっぱりこれは恋にはなり得ないのだと痛感する。痛い思いしかしないね、でも人生ってそんなもん。多分だけど。でも16年生きてきて、苦しい時間がたくさんあった。だから多分間違いではない。

 三ツ谷くんの指と指にペットボトルが掴まれて、残ったミネラルウォーターが透けて、アスファルトに仮初の海を作り出した。

「もう夏だね〜。あ、海って好きなんだよねわたし。夏の海は嫌いなんだけど」
「すぐ矛盾すんなあ」
「あはは!だってそうなんだもん。なんていうのかな、冬のさ、万物は死に絶えた!って感じの海が好きだよ」
 銀色の波がきれい。って言おうとしたけど、街灯が真っ直ぐ三ツ谷くんの髪で反射していて、何も言えなくなった。記憶の波より、ずっときれいだったから。

 人工的な銀色。透明の波打ち際。真っ白な街灯。じゃあねって言ったわたしの声は震えていなかったかな。いつも通りだったらいい。本当は、三ツ谷くんに安心して泣きかけてらなんてこと、気づいていないといいな。



「にしてもルイってつくづく男運ねえよな。なんでそんなクズ野郎にばっかり言い寄られんの?アレ、実は逆でそれともルイが男をダメにしてんの?」
 真っ青なシャープペンシルをくるくると器用に回す八戒にため息をついた。数学の参考書を開いた途端これだから、本当に、八戒は手がかかる。
「八戒、いい加減にしないとわたしの手元が狂ってアンタの手を指すよ」
「うっわ、シャーペンで刺そうとすんなよ!地味に痛えやつじゃんか」
「だったら真面目にやる。今度の期末テストでは数学の追試避けたいんでしょ?」
 うー、と八戒が唸る。今にも知恵熱を出しそうな八戒に苦笑してから、ローテブルのすぐ近くにセットされた扇風機のスイッチを押す。

 ユズハと違って八戒はわたしに笑ったりはしないし、遠慮なく好き勝手言う。小さい頃からずっと変わらないでいてくれるから、わたしも昔とおんなじように八戒に笑いかけられる。どんなに世界が移ろっても、左右に首振りする扇風機のモーター音と、夏の麦茶の色だって変わりはしないね。

 わたしもわたしで課題をやろうと、日本史の教科書を開いたところで八戒が「でもさあ〜〜」と大きな声を出して机に潰れた。
「ちょっと八戒」
「でもさ、ルイ、オレ結構マジで思ってんだよね」
「わたしの男運のなさは今に始まったことじゃないでしょ、突然そこまで騒ぐことじゃない」
「タカちゃんでいいじゃん、かっこいいし強いしクズじゃないしさ」

 わたしは八戒の無表情が怖い。どうしてなのかはわからない。わからないってことにしているんだっけ、忘れちゃった。
 八戒の目にまっすぐ見つめられると、頭の中にある全てを見られているような罪悪感がぎゅうと押し寄せる。見学したときに嗅ぐ、プールの塩素のように、わたしの心をめちゃくちゃにする。

 三ツ谷くんになりたい。そうすればきっと、わたしじゃ手の届かないことを変えられる。八戒が笑って、ユズハに寄り添う理由を作れて、それで、それで、それから。

 身の程知らずが喉に詰まったから、やめた。困ったように笑ってから「それは知らないよ」と言った。わたしは三ツ谷くんになれるわけがない。愚者の哲学など八戒に語れるはずはないの。ずっと知らないままでいて。

「……そうだ、ねえ、三ツ谷くんてなんか香水とか使ってるよね?」
「ん?あー、そうそう。タカちゃんいい匂いもすんだよな!一回気になってタカちゃんに聞いたけど……。ルイもタカちゃんと同じの使うの?」
「わたしは香水使わないよ、わたしの家の柔軟剤って結構匂いが強くてさあ。わたしじゃなくてね、三ツ谷くんに」
 キョトン、と目を丸くする。図体こそ立派になったけど、垣間見える表情は小さい時と変わらず、わかりやすいのは愛おしかった。クエスチョンマークマークに答える声は自然と跳ねている。八戒といるといつもこうなる。かわいくて、愛おしくて、どうにかなりそう。
「この前送ってもらったときに、三ツ谷くんて手がさ、ちょっと荒れてて。日頃、八戒もお世話になってるしハンドクリームでもあげようかと思ったの」
「それと香水って関係なくね?」
「好きな匂いとかあるでしょ。あと、匂い同士がケンカするとかさ」
 おー、とわかってるんだかわかってないのかふにゃふにゃした返答をよこしてから、八戒はシャーペンの頭をノックした。やっと問題集に視線が落下したから、わたしは立ち上がろうと足を崩す。冷蔵庫のよく冷えた麦茶がのみたかった。

「なー、ルイ」
 呼び止められて八戒の顔を覗く。いつもの通り、笑ってはくれない。でもそれは見慣れた顔だった。見通せそうなのに、全然気の利かないかわいいおとうとみたいな男の子。昔はわたしの腕の中におさまっちゃうぐらい小さかったのに、わたしの人差し指を握って離さなかったぐらい小さかったのに。何一つ面影を残さない八戒の大きくて、分厚い手がちょっとだけさみしいと思う。
 八戒の大きな手がわたしの耳たぶを指で示す。ソレ、という声にああ、とわたしはひとり頷く。
「いつピアス開けたの?ってか、ルイの高校ってピアスオッケーだったっけ」
「これピアスじゃないよ」
「え、嘘!」
「ほんとほんと。これね、イヤリングなの。ね、ちゃんと見れば分かるよ」
「でもそれタカちゃんのじゃん」
 見たことあるよ、って言う八戒にわたしは笑うだけ笑ってたちあがった。たしかにこれは三ツ谷くんがくれた。でも、本当にそれだけ。でもそれだけのことを言おうとすると、なんていうか、たくさんの本当を八戒に見せなきゃいけない気がして。
「こういうのってわかるんだね」
 こんなのよりも、爪の垢でも煎じた方が数百倍マシなんだろうな。こういうのいいんじゃねえの。笑った三ツ谷くんのあの手にわたしは受け取ることしかできない。ああ、ずるい。
「だって、タカちゃんだよ?」
「いや、それって理由になってないからね。もー、ほんと八戒は三ツ谷くんのことが大好きよねえ、妬いちゃうなあ」
 三ツ谷くんなんて、途中から出てきただけなのに。過去系で語ろうとしたのに、妬みにの生々しさと痛みが喉を傷つけた。三ツ谷くんが羨ましかった。わたしにはできなかった。八戒は、わたしの弟みたいなもんなのに。
 喉が乾いて、痛くて仕方がなかった。誰も知らないこと。わたしがひとりで勝手に抱えてるだけの感情。八戒もユズハも三ツ谷くんも……大寿だって知らなくていいこと。
「別にルイが気にすることじゃなくね?」

21.07.15