猫は聞いている
 私はうっかり、書類を一枚出し忘れていた。風影様の判子が必要な、本日提出の最後の一枚だ。

「全く、どこに行ったのか……」

 それなのに、こんな時に限って風影様が見当たらない。
 風影様の名前は、我愛羅。
 幼なじみで、同じ忍としても尊敬している男の子だ。今はもう、上司と部下としてしか付き合えていないけど……私は彼のことが好きだった。……だった、ではなくて今も好きだけど。
 そんな迷惑な気持ちはどこにも出さずに、今日まで生きてきた。

 近所の八百屋のおばちゃんに聞くと、先の公園で子供たちと遊んでいたよと聞いた。私は足早に書類を掴んだまま、その場へ向かう。
 子供たちと遊んであげているなんて、昔の我愛羅であれば考えられない。私は口元に笑みを作りながら、その足を早めた。

 広場には遊具が何点かあり、その中央にあるジャングルジムで、子供たちが猫と遊んでいたのを見つけた。

「あ、名前子さま!」
「ねえ、貴方達。風影様は見なかった?」

 しかし、残念ながら子供たちは揃って首を振る。

「んーん、一緒に遊んでたけど、もう帰っちゃった」
「そう……」

 はー、と私は大きなため息をついた。
 この書類、どうしよう。風影様の家まで行って判子を頂くのも野暮ったいし、かといって今日までの書類を明日に引き伸ばすのもタブーだ。
 げんなりしていた私は、ふと足元の猫が前足でつついているのに気がついた。

「可愛い猫ね。貴方達が飼ってるの?」
「ううん、野良だよ」

 少し太っているが、まんまるで尻尾も太く、それがまた愛くるしい。頭を撫でてやると、猫はゴロゴロと喉を鳴らした。

「ふふ、可愛い」

 私は目を細めて微笑む。そんな時、一人の男の子がぽつりと言った。

「そういえば、名前子さまはどうして風影様を探していたの?」
「ああ、それは……」

 私が事情を説明しようとすると、別の女の子がニヤニヤしながらそれに答える。

「男子ってばわっかってないのねー! この時間に男女二人が落ち合うっていえば、告白かデートでしょ、デート!」
「う、ええ?」

 私は慌てて手を振り、誤解を解こうと仕事の件を話し始める。適当にあしらっても良かったが、尾ひれがついてもいけない。私は書類を見せながら言った。

「違う違う、この書類のことで風影様を探してたのよ。判子が欲しくって」
「なぁんだ、てっきり付き合ってるのかと思ってたのに」

 つまらなさそうに言う女の子に、私は苦笑いした。この時期の女の子は、とてもませている。そんな中、男の子がじっと私を見ていることに気づいた。

「どうしたの?」
「名前子さま、本当に風影様と恋人じゃないの?」
「ええ、う、うん」
「風影様のこと、名前子さまは嫌い?」
「ええ?」

 私はびっくりした。なぜそう思うのか聞いてみると、風影様のことをじっと見てたから、だそうだ。
 子供から見て、私はそんなに敵意剥き出しだっただろうか?

 いや、そうじゃない。私は彼のことが好きだから、ずっと見てただけだ。彼の横顔を、仕草を、表情を。
 皆が彼を化け物扱いしていたあの頃から、一言も話すことができないくせに好きだったのだ。

 私はそのことを思い出して切なげにはにかんだ。今はもう、そんな気持ちは出せない。出しては、いけない。彼の邪魔になるから。
 でも、子供たちからすれば、好きの違いもよく分からないだろうし。

 いっか。

 私はニコッと笑って、猫を抱き上げて抱きしめた。

「ふふ、そうだね……私と風影様は恋人同士じゃないけど、私は風影様、いや。我愛羅のことが好きなんだ」
「やっぱり!」

 猫の顔に頬を寄せる。もふもふとした感触がくすぐったく、温かい。猫って綺麗好きだから、犬よりあんまり臭わないんだよね。

「うん。強くて、優しくて、真っ直ぐで……でも誰より心が繊細で、里のことを思ってる。愛を欲しがってる彼をずっと見てたけど……勇気が出なくて好きだなんて言えなかった。本当は誰より、彼を……」

 私はそこまで言いかけて、書類の判子のことを思い出した。気づくと夕日も沈みかけ、猫も尻尾がぶわっと膨らんでおり、毛が逆だっている。

「ごめんごめん、怖かったね。みんな遊んでるのに話しかけてごめんね、私も判子をもらいに行かなきゃ」
「ううん、大丈夫」

 猫を地に下ろして慌てて街の中へと戻って行く。今なら風影様の背中に間に合うかな。
 私が駆け足で歩を進める中、その背中を見送る子供たちは無言で顔を見合わせていた。

「……すごいの聞いちゃったね」
「うん」
「良かったね、風影様」

 男の子がその名を呼ぶと、ぼふんという音と共に、猫の姿が我愛羅の姿へと変わっていく。
 我愛羅は夕日に負けないくらいの真っ赤な顔を手のひらで押さえ、その場にしゃがみ込んだ。

「……少し黙っててくれないか」

 子供たちはニヤニヤしながら、揃って『はーい』と元気な返事をした。