01
生まれて初めて長い距離を歩いていた。足を交互に動かす感覚がまだよく分からない。泳げばすぐの距離がやけに遠く感じた。今までに見てきた人間の動作を鑑みるに、おそらく今の俺は不格好な歩き方をしているのだろう。
上体が重すぎてバランスが取れず何度もよろめきながら、行けと指示されるまま向かった場所にやっと辿り着いた。だがそこには扉が立ちはだかっており、どうすればいいのか迷っていたら急に開いたドアに頭をぶつけた。
「…………」
「悶絶してるとこ悪いけど遅いよシャチ」
ぶつけた部分に不快な音が反響している。半端に人間のような体にされても、俺がシャチであることに変わりはないようだ。
重い頭を手で支えて顔を上げると、歪む視界の中に館長室と書かれたプレートがあった。少し視点を下げれば、でら偉そうな態度で女が立っている。リオだ。化け物クジラに呼ばれてきたのに、あの男は見当たらない。
「俺に何の用があるんだ」
丑三ッ時水族館に突然現れ、そこに生きる者達を瞬く間に叩き伏せ奴隷に仕立てあげた男。魔力とかいうもので俺をこんな姿に変えた後、全く姿を見せないが……。
「まーとりあえず座れば。立ってるのきついでしょ」
イサナの先兵とも言うべき女は、質問に答えず俺の手を引き部屋の中へと導いた。手、足……リオを真似て動かしてみるが、どうにも慣れない。どうすれば元の体に戻れるのか、あの男なら知っているだろうに。
館長室に入ると、イッカクとおぼしき何かが長椅子に腰掛けていた。あれも俺と同じくイサナの魔力を受けたのだろう。自分の姿をはたから見ているようで妙な気分だ。
「リオ殿、そちらは」
しばらく俺を観察していたイッカクが、唐突にリオの方へ振り返った。勢いよく横切った牙が彼女の服の腹の辺りを裂いて、鮮血が……飛び散らないな。肉には届かなかったのか。
「むっ、済まない。距離がつかみきれなかったようだ」
「よしそこ動くな、その喧嘩買ってやるわ」
「わざとではないことを考慮していただきたいのだが!」
「だまらっしゃい」
道を塞いでいたテーブルを踏み台に跳躍し、そのままイッカクに跳び蹴りを食らわせた。見事な技だ。流石に本物の人間、と言うべきか?
あちらもまだ呪われた体に慣れていないのだろう、まともに反応することもできずに打ち倒されたイッカクがよろよろと起き上がる。そこへ足速に歩み寄り、床に向かって伸びる牙を踏み付けてリオが冷ややかに見下ろした。
「長すぎるのよ。折ってしまえこんな角」
「これは角ではなく牙だし私の誇りであるから折れるととても悲しい!!」
「あんたの悲しみなんか知るかー!」
無惨に破れた服を引っ張り、どうしてくれるのか、謝っているのに、と喚く二人を横目で見つつ少し離れて長椅子に座る。足が痛いな。
水族館が様変わりしてから早かった。事態を把握する間もなくこの施設はまるごとイサナのものとなり、俺についていた飼育係も調教師もいつの間にか消えていた。まだ館内のどこかにちらほらと人間らしい気配はあるが、顔を合わせることはない。
呪いを解く。そのために寂れ果てた丑三ッ時水族館を世界一有名に、しろ。……知ったことかと思った時にはこの姿だ。イサナの呪いが解ければ俺も解放されるのか、それさえ分からないまま抵抗も封じられ、知らぬ内に巻き込まれている。
捕えられ見世物にされ、どうせ奴が来る前にも似たようなものだった。だが、ここまで不愉快な思いはしなかったはずだ。
「動物に誇りなんか無用よ!」
「それは暴言ではなかろうか!」
リオとイッカクの口論はまだ続いていた。足蹴にされている状態からは脱したようだが、今度は彼女の手に牙を掴まれて、激昂する度に上下に揺さぶられている。正直、俺から見ても人間の体型にその牙は長すぎて邪魔だ。欝陶しい。
「牙は私の力そのもの、いわばスピリット! これを折れと言うのは死ねと言うに等しい!」
「馬鹿じゃない? この世には食べられるものと食べられないものの二つしか存在しないの。食べられるものに、精神なんかいらないわ」
よく分からない理屈を並べ憤るリオに、イッカクがなぜか感銘を受けたように目を見開いた。
「た、確かにそれもまた一つの真理かもしれないが」
納得してどうする。でら単純な野郎だな。誇りなど持ってはいないが俺は食べられる側にはまわらんぞ。
早速イッカクの牙を折ろうと力を篭めたリオの姿が、不意に歪んで見えなくなった。視界が靄がかり景色が曖昧になる。
「反響定位か」
「ん、館長? なんだって?」
おそらく彼女に向けた言葉なのだろう。会話を交わそうという意思の一切感じられないクジラの声が一方的に響き、また一方的に閉ざされた。
「……ホホジロザメを拾ったから使え、と」
同じ言葉を聞いただろうイッカクも首を傾げている。他の水槽のことはよく知らないが、ここにホホジロザメなど居なかったはずだ。
「拾った……だと……」
真顔で低く唸ると、リオはイッカクから手を離し力無く椅子に座り込んだ。散らばっていた紙束に視線をやり、「入れる水槽ないじゃん」と呟き溜め息をつく。そういう問題なのか?
「こいつら二人で手一杯な気がするけどなぁ」
「私達は何をするために呼ばれたのだろうか」
知りたいが聞きたくなかった問いをついにイッカクが発した。
俺の他にもいろいろな動物が芸を仕込まれはしたが、それを見に来る人間はほとんど居なかったように思う。イサナの目的はここに人間を、それも水族館で働く者でない人間達を集めることなのだろう。
しかし俺達を巻き込む意図が分からない。人間の問題なら人間同士で煩わされていればいい。リオにそうしているようにここの従業員を従わせていれば、俺には関わりないはずだ。
「館長は人間がいるのが嫌なんだってさ。だから働くのはあんた達。展示品も、管理者も、両方やれってことよ」
「……あの化け物は馬鹿なのか?」
「馬鹿じゃなきゃクジラに呪われたりしないでしょ」
もっともだ。しかしそれならお前は底抜けの馬鹿だな。言っても堪えないだろうから言わんが。
館長、とイサナを呼ぶ。それはこの水族館の長の名だ。あいつが支配者となった証だ。動物に近しいところから順に人間を消しておきながら、その代わりを務めろと俺達に言うのか。
「しかし私は人間のことなど何も知らないが? 他のサカナ達も似たようなものだろう」
同意を求めるようにこちらを見たイッカクに、黙って頷く。
「だから勉強しろって話。っと、まず選抜よね。とにかく哺乳類をまずリーダー格にしようと思って……あと頭のいい動物って何?」
別の水槽に割り振られていた俺達が、他のサカナのことを知るわけがない。シャチである俺や、このイッカク、あと数頭のイルカ達なら互いの存在ぐらいは認識していたが、それだけだ。イッカクにしても、さっき初めて顔を見たばかりだというのに。
「群れない者は、それなりに知能が高いのではないかな」
俺を見て思いついたようにイッカクが言う。なるほど。なら少しは考えようがあるか。
「群れの長を務める者もそれなり、だろうな」
野生時代に追いかけてよく逃げられたものなど、イッカクと共にいくつか挙げていくと、リオがそれを書き留める。そして感慨深げに書面を眺めて、いきなり突っ伏した。
「な、何だ?」
「しっかりしたまえよ」
「やだもうやだ! タコカニマグロ……何の嫌がらせよこれ読んでるだけですっごいお腹すくわ!!」
「泣くほどのことか」
「まあとりあえず館長に見せてー、この中から実際使えそうな奴を幹部ってことにしよう」
そして担当を決め、未だ残る人間には見つからないよう仕事を覚えさせる。それよりもまず体に慣れること、か。
あの男はやはり姿を見せない気か。水中ですら負けたのだから今更抗うことは叶わずとも、目の前に居ない者に従わされるのは屈辱的だ。あれこれと指示を出しているのはイサナのようだが、リオは奴がどこにいるのか決して口を割らなかった。一方的な通達ばかりで不愉快極まりない。
「お前はどういう立場なんだ」
「ん?」
「人間なんだろう。なぜ当たり前のようにここにいる」
「……食いっぱぐれないからかな」
単純で分かりやすく、理解できない返答だった。無知な魚ならともかく人間が、自尊心よりも本能をとるのか。
俺はイサナの顔を知らない。思い返せば敗北の記憶とともに、全身を布で覆い隠した不気味な影が浮かぶだけだ。忌々しい奴を叩き潰す想像で気を紛らすこともできやしない。
ただ純然と、奴に従うしかないという事実があるだけだ。
「従業員が残ってる間はどうにもなんないわね。閉館しましょうって方向でいくか」
「それでは目的に背くんじゃあないか?」
「とにかく邪魔な人に出てってもらわなきゃ。その後、次の持ち主ってことで館長に入ってもらうかな」
それまでに少しくらい人間ぽくなってくれないと。そう呟いた声に、あの迫りくる巨大な尾のシルエットが重なった。イサナは人間の形をしていないのか。それでリオのようにすんなりと水族館に入れないのか。
哀れな生き物だ。俺達を見下しておいて魚にさえ縋らなければ何もできないんじゃないか。
不意に気になってイッカクの顔を見る。俺よりも先に襲われたのか、それともリオを経由して争わず従うことを決めたのか。とくに不満そうな気配もなく言われるままに動くつもりでいるらしい。というか、あの男に対して頓着していないように見えた。
似たような立場でありながらこうも違うか。長く同じ場所に住みながら、ここにいる者のことを何も知らないのに気づいて少し驚いた。
「当面は今まで通り普通の動物としてショーにも出てもらうけど、徐々に減らすから」
「ああ」
「その後たぶん死にたくなるから覚悟しといて」
「……」
そんな覚悟したくない。
咄嗟に心中で答えた言葉が聞こえでもしたか、リオは祈るように目を閉じて、憐憫など感じ取れない冷めた声音でぽつりと呟く。誰に向けたものでもない言葉を聞きたくもないのに拾ってしまった。
「……ま、同情すべきか、まだ分かんないわよね」