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 これまで置かれていた複雑怪奇な環境のせいで、考えるのが面倒になっていたから。単に元々そういう、細かいことに拘らない性格だったのもある。
 自分自身や誰かに対してこれは人間だとかあれは動物だとかあまり意識して区別したことはなかった。けれど、こういう事態に陥ってみれば改めて自分が半端者でよかったと思った。そしてまた悪事を働くことにも慣れていてよかったと。どっちも館長のおかげだろうか。
 目的のためには人間の姿が必要だった。動物らしい残酷さも必要だった。両方揃えていなければ成し得なかったことがある。
 肝要なのは自分の欲望のために些細な犠牲を顧みないことだ。いちいち良心が咎めるようでは思い切った行動ができない。これと定めた目標のためにいろいろと人には言えないようなことをしたけれど、少し申し訳ないと思うだけ、後悔はしてなかった。
 窓の外を見ると小雨が降っている。傍らに置いた水槽のやかましさで雨の音は聞こえなかった。

 景色を暗く覆う雨も、すぐそこにあるはずの海も、音がなければやけに遠い。酸素が送り込まれる音も単調で、血の巡るのに似たリズムは体の奥深くに馴染んだ。……静かだ。
 話し相手もおらず思いに耽る。生きてるってどこで確証できるのだろう。何が境界線を決めるんだろう。我思うゆえに我在り……なんて、自我が存在の証明だとは思えなかった。何も思考せず確固たる自己もなくただふらふらと漂うだけのプランクトンになっても、生きてるって実感できたもの。
 海の中には理屈抜きの淡泊な事実だけがあった。生きてるものは生きてるし、そうでないものは死んでいるのだ。
 フカは、生きているだろうか。生物としてなら事実生きてると言える。でも彼は、自分を生きてると思っているだろうか。
 傷だらけのホオジロザメが水槽の中で動いていた。ほとんど自分で泳ぐ気力もなく、強制的に送り込まれる酸素のせいで生きながらえている。生きてるんじゃなく死なせてもらえないだけだ。誰のせいか問うまでもない。
「あたしの我が儘、かぁ」
 返事はなかった。呪いに巻き込まれた人間もどきのフカではなくて、真の姿とでも言うのだろうか? ただのサカナに戻ってしまったこいつと、あたしは会話も交わせない。話を聞けばおそらく恨み言を零されるのだろうから聞けなくてよかったのかも。
 こいつがサカナに戻されたということは館長は死んだってことか。どうしよう。どうすれば、いやそもそもあたし、どうしたいんだろう? 弱ったフカを見て衝動的に死なせたくないと思ったはいいけれど、そこから先を考えていなかった。
 こいつを奈落へ引きずり込もうとする力にがむしゃらに抵抗して、陸に上がって身を隠して、巨体を匿えるだけの設備を整えて。この状況に持ち込むまでに随分と多くのひとを騙した。でも今まで水族館で為してきたことを思えばまだ良心的と言える範囲で済んでいる。
 元々体力馬鹿なヤツだから安静にさせて自然治癒に努めさせれば死なずに済むだろう。でもその先は? ここでずっと飼い殺しにでもするつもりなの? そんなことのために助けたかったわけじゃないのに。
 館長がいないのなら水族館はじきに潰れるだろうし、あたし達に帰る場所はなくなった。とりあえず命は取り留めたけど言い換えればそれだけ。ただ生きているだけだ。こんな狭いところじゃいずれ死ぬ、あたしだっていつまでも餌を確保し続けられない。八方塞がりだった。
 自分一人ならどうとでも生きられるものが、誰かを生かすのはこんなにも難しい。考えてみれば、やり方はどうでもあれだけの数のサカナを養っていた館長は、あたしより余程人間として優れてたな。
 道を拓くには、やっぱり海か。傷が癒え次第一緒に行こうか。守り通すなんて大層なことはできないかもしれないけれど、一人きりではないからきっと大丈夫。少なくとも孤独に泡と消えることだけはない。

 ともかく第一に自分のことを考えなければいけない。フカは本来の生命を取り戻してしまえば最強と言うに相応しい生物だからいいけれど、そいつにくっついてるつもりのあたしはそうはいかないんだ。まず泳げないし。とにかく一人で海に入り、まずは深呼吸から始めてみよう。ああ嫌だなー、でもやらなくては。
 泳げないならプランクトン状態を保てるようになればいい。せっかく能力があるんだから利用しなきゃ呪われ損だ。館長だって人間性を残しながらクジラ部分を自在に操る十徳ナイフのようなひとだった。あれを目指そう。違う、あんな風にならなければいけない。
 頭のいいクジラと違ってあたしは元が下等生物だから、全身を変えてしまうと何も考えられなくなるのが問題だ。フカを生かすために思考能力は残しておかなくちゃ。液状化し、水流に砕かれて分散する体、その全てがリオの思考を持っていなければならない。
 分かたれた微生物は死に行くばかり、でも同じだけの数がまた生まれてもいる。どんなに細かくわかれ、一つ一つがどんなに軽い命でも決して死に絶えることはない。リオという存在を保てる体積の分だけはいつも存在していた。寄り集まればいつでもあたしに戻れるように。
 海上に顔を出せるギリギリまで水中に身を沈め、頭部だけを残して液状化し意識の統一をはかってみたけれど、うまく保てない。自我が消えて流れ出しそうだ。では上半身のみならどうだろうか? 今度は溶け出す範囲を狭め、腰まで人間の形を残してみた。
 見下ろせば消えた下半身。……グロい。けど、いけそうだ。半分も残ってれば自分を見失うことはないのかな。ではどっちがあたし自身なんだろう。どっちにしろ、バラけた体を拾ってくれた館長はもういないんだから、なくしたら取り返しがつかないんだ。

――……

 こんな時に筋肉馬鹿の幹部どもがいれば、いやただの力仕事だから雑魚でもいい、失って初めて気づく大切さというやつなのかな。この前フカを運んだときは命がかかっていたから疲れなんてなかったんだけど。
 ちょっと死にかけながらどでかい水槽を海岸まで運び出して、ひっくり返す。浅瀬で暴れるサメを海中へ押しやって、波に戻され、何度も噛まれ流れた血に興奮するバカに殺されかけながら。
 海へ――。
 全身が水に包まれた瞬間フカは泳ぎはじめた。怪我はあらかた治っているけど大丈夫かな、なんて心配は全く無意味だった。水を得た魚って言葉をまざまざと見せつけられた。
 本来あるべき場所へ還りついた喜びか、見たことないくらいに力強く雄々しい姿。体のすべてを無駄なく使い切って、波に乗るというよりは引き裂くように泳ぐ。
「っとと、見惚れてる場合じゃな、い、いや見惚れてないけど」
 手の届かないところまで行きかけた尾鰭を慌てて掴むと、すごい勢いで引っ張られた。動きが早すぎてあたしの体重では振り切られそうだ。
「……マジ、人間終わりかもねえ」
 痛いほどざらつく肌にしがみついた上半身だけを残して、血と肉体を海にばらまいていく。餌撒いてるようなものだ。変なものが寄って来ませんように。
 片方の頬には力を取り戻した筋肉の動き、もう片方には激しい海流を感じながら、見覚えのある顔が複数、頭の中に浮かんで消えた。あたしどうしてここまでしてんだろう。

――……

 まるであの水族館での日々そのままに、餌となってサカナをおびき寄せる。フカはそれを食らい、つられて集まってきた別のサカナに襲われる。フカはそれを殺してまた喰らう……動物生活だ。
 ずっとくっついてるあたしを気にしてないのはなぜだろう? 時々は人間の姿を模って抱き着いてみたりもするのに無反応。フカって呼んでた時のこと思い出せよ、と思わなくもないけど邪険にされないのはありがたかった。
 生きることだけに精一杯で、サカナは何も考えないんだろうか。こいつの生に介入できないこと、悲しくはなかった。でも嬉しくもない。ただこういうものかと思うだけだった。コバンザメにでもなったつもりでさ。
 なんか、慣れてきた。このままでもいいかと思った。話せはしないけどそばにいて、心を交わし得た日々は二度と戻らないかもしれないけれど、代わりにともに生きる今がある。サカナでもいいじゃん。これ以上の何を望めるっていうの? 失ったものを取り戻すなんて……。
 そういえばフカは館長に呪われていたんだった。なら人間混じりの姿になんて戻りたくないだろう。それはまた呪われるということなのだから。望まず陸に縛りつけられるってことなのだから。……だからこれでいいんだ。このままで満足だ。
 背鰭に手をかけたまま仰向けに寝そべった。揺れに合わせて海面の光がぐにゃぐにゃと曲がる。それをぼんやりと眺めながら、あたしは――。

 館長は彼らを憎んでたんだろうか。自分の姿を醜いと思い込んでいたあの人間の男は、呪われた動物達をどう想っていたんだろう。
 忘れかけてたけどあのアザラシ、あれもフカ達と同じだった? あれを助けにきたっていう動物園の人間も、彼らを呪っていたからアザラシはあんな姿に? 会っておけばよかった。呪いをかけた者とかけられた者、もっと早く興味を持っておけばよかったのに。今更こんなに気にしているなんて。
 なぜ呪いをかけたんだろう。館長は利用するためだった。あのひとの操る水で動物達を陸に拘束し、自分の目的を果たそうとしていた。では動物園は、なぜ、どうやって呪いを? ……彼らはどうして? どうやって、ひとのように、近くに。
――どうやれば呪いをかけられるんだろう。何を想えば。何を望めば。何を願えば、一緒にいられるんだろう。
 不意にフカの背中の感触が変わった。大きくなだらかな線が盛り上がり、急旋回するときのように体を折る。落っこちそうになって焦ったあたしは向きを変え、一瞬動きを止めたヤツの背中に今度はしっかり掴まったら、視界の両端で手足をばたつかせるのが見えた。
「……手、足?」
「な、なん、何だ!? 何が起き、」
「……フカ」
 水中なのに声が響く。抱き着いた“肩”が驚きに揺れた。
「ど……どうなってんだ。なんでまた、この姿に」
「フカだ」
 案外気づかないものなんだって思った。あたしの腕を押さえて振り返ったヤツと目が合った。
「リオ? お前……おい、こりゃどういうことだ!? いやちょっと待て、海に放り込まれてから、確か……ああくそ、混乱してきたぜ!?」
 気づかないものなんだ。自分が何を求めてるのか、考えてみるまで分からないものなんだ。目の前で馬鹿みたいに頭ぐるぐるさせてるのは、今までで一番“フカ”だった。サカナに戻ったときよりも怪我が治ったときよりも海へと泳ぎ出したときよりも、元通りのあいつだった。呪われて働かされ陸に縛りつけられていた頃の……でも、あたしが会いたかったフカだった。

「ごめ、ん」
「へっ?」
「還りたいって言ってたのに」
 あたしがそばにいたかったから。あの日々を失いたくなかったから。だから、呪いをかけてしまったのか。ひとりぼっちは嫌だって、たぶん館長や、動物園の長と同じ身勝手な理由でフカをこの姿に変えてしまった。
「せっかく戻れたのに」
 ただのサメに戻ったときどうして喜んでやれなかったんだろう。陸から自由になることを心底求めて、人間世界に巻き込まれるのは嫌だって、そこから逃れるために死まで覚悟していたのに。
 フカを助けるためにいろんな人間を騙して傷つけて無視してきたけど、それは全部こいつのためなんかじゃなかった。ただ寂しいからそばにいてほしいと、置いて行かれたくないというあたしの我が儘だった。
「なんか、分からんが、お前が助けてくれたんだろ? そう落ち込むなよ……つーか、まず落ち着こうぜ、オレもお前も」
「ごめん……フカ、ごめんなさい……」
「だああっ、頼むから下手に出るな、らしくねぇよ! お前は何も悪くない! な!?」
 頷けない。自覚もなくこんなに求めていたくせに、いざ手に入れてしまうと見慣れすぎた顔が切なくて堪らなかった。泣きたいような気分なのに涙も出ない。
 フカはただ、困った顔してあたしの頭を撫でていた。



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