13
死が目前に迫った今、いろいろと渦巻く思いはあるが、懐かしい海流に巻かれていればそれだけで全部どうでもよくなる気がした。単に何かを考える余裕もなくなっただけか。まあいい。
頼っていいのか分からん相手にだが後を託した。だからだろうか、後悔らしい後悔もなかった。……やり残してきたこともあったはずだがなぁ。
水族館なんてよく分からん所に連れて来られてからも、俺の周りにはずっと水があった。陸にあっても乾いたことなんか無かったのに、ここに到って改めて、あれは身に馴染んだ海とは全く違う場所なのだと分かる。同じ水の中なのに。自らのあるべき場所ってのは確かに存在するらしいな。
しかし生きるの死ぬのって意識し始めたのはイサナに出会ってからだが、人間紛いの知能を得てしまったせいなのか、過ぎた経験を“それもいい”と感じている。そんな自分の甘ったるさが腹立たしくもあった。
海が、この海こそが俺の居場所だ。あんな胸糞の悪い、陸地の檻に戻りたいとは微塵も思わねえ。なのに妙に未練を感じるのはなぜだ。負けて出てきたからか。俺が自分から立ち去ったんじゃなく、あちらに捨てられたからだろうか。
それとも遥か頭上に離れたあの場所で、今も動き回っている嗅ぎ慣れた匂いのせいか? ああくそ、感覚が鈍ったせいであいつが近づいて来てるような錯覚さえ起きる。
そんなくだらないことを考える内に、泳ぐことすらきつくなってきた。そろそろ限界か、もう本当に終わりだな――誰にも聞かれないはずの呟きに、答えるかのような音がした。背後で海が大きく乱れて、こぽりと息を吐く音が。
「なっ……」
振り返ってすぐに飛び込んできたのは、仏頂面を通り越した不機嫌さで俺を睨みつけているリオの顔だった。海の中だってのに腕を組みあぐらをかいて、平然と“座っている”のはどういうことだ。いやそれよりどうしてコイツがここにいる。
「何やってんだ、おめぇは」
こんなとこにいないで仕事しろよ。真面目にやらんと館長にどやされんぞ。俺ぁ八つ当たりされるのは御免だからな……って、もうその心配もないんだった。あーあ、なんか全然自由になった気がしねぇな。結局まだ囚われてるのか。
「……死骸を漁りにでも来たのかよ」
残念ながらまだ死んでないけどな、なんつって自嘲してみるが、不快さを隠しもせず眉間にシワを寄せるばかりでリオは返事をしない。黙したまま、ゆっくりと沈んでいくだけだ。……って、コイツ泳げないんじゃなかったっけか?
「おいおい、どこまで行く気だ」
押し黙ってひたすら深海に向かって落ちて行くのを見てふと思った。ああ? 機嫌が悪くてしゃべらねぇんじゃなくて、水中だからしゃべれないだけか、もしかして。
死にかけの俺に助けさせんなと内心で悪態つきながら、渾身の力を振り絞って沈みゆく体を引っつかみ、担ぎあげて水面へと上昇する。何とかそれくらいの力は残っていたようだ。
波間に揺らぐ光を抜けてようやく海面に辿り着くと、背中にしがみついていたリオが呑気に零した。
「……あー、くるし。死ぬかと思った」
「そうは見えねぇよ」
態度が冷静すぎんだよ。助けを求めてるなら踏ん反り返ってないでそれらしくしてくれ。暴れるとか藻掻くとか、せめて俺になんか訴えるとか。でなきゃ分からんだろうが。
「つうかどうして溺れるんだよ、プランクトンのくせに」
「今はわりと人間だもの」
「イサナは水ん中でも息してたし歩いてたぞ」
「いかなごと一緒にしないでよ」
「いかなごじゃねえ、イサナだ! 館長だよ!」
ああそういやそんな名前だったなんて言いつつリオは俺の背から降り、背鰭に捕まったまま横に浮かんだ。……浮袋扱いされてる気がするんだが。まあいいか、沈まれても困るしな。
釈然としないまま水流に乗っかって陸へと向かう。リオもぶら下げてるし、正直もう泳ぎ切るだけの体力は無いだろう。最悪の場合にゃ自力で生き延びてもらうしかねえよな。
「死んだって聞いたから慌てて来たのに」
「悪かったなあ、生きてて」
「べつに悪いなんて言ってないけど」
拗ねたようにそっぽを向いて、そのまま俺の背にぺたりと頬をくっつける。傷がつきそうで気が気じゃないんだが。
いつもならどうってことないのに、今はぶら下げたリオの体がやけに重く感じる。自分がどれだけ弱ってんのか実感すると、苦しいよりも苛立たしい。
「ねぇ、速度落ちてるんだけど」
「当たり前、だろ……」
「止まらないでよ」
無茶苦茶言うな。大体こっちはお前が来る前から限界ギリギリだったんだぞ。って、もう突っ込む気力もねぇわ。
「ダメそうなの?」
「……」
「ねえフカってば」
血の匂いがした。どうやら、焦るあまり俺に掴まっている手に力を入れすぎたようだ。こっちの方が死に体だってのに気になって仕方ない。この匂いに引き寄せられて厄介なのが来ないだろうかと周囲を探るが、幸い近いところに鮫は居ないらしい。まあ正直、まず俺がやばいんだが。
「お前、もう、行けよ」
泳げなくてもどうにかなるだろ。ってかどうにかしろ。俺は助けるだけの余裕なんか残ってねぇんだからな。
「放って帰ったら死ぬじゃない」
一緒に死ぬこたねぇだろ。と、段々言い返せなくなってくる。言葉が遅れるたびにアイツが焦れるのが分かった。
「まだ準備できてないのに」
いつだってそんなモン必要なかったじゃねぇか。いっつもサメ食いたいだのなんだの無神経なこと言ってたくせに、いざチャンスが来たら逃げ腰になってどうするんだ。イサナに捨てられた雑魚を食らう時だって淡々とやってたじゃねぇか。何を今更焦ってやがる。
背鰭のあたりにリオの額が当たった。全身が緊張で震えていた。いや怯えてんのか。意外というか、こういう面もあったのかと思うと、それを知ったのが死ぬ間際ってのが虚しくなる。
「……だから……死なないでって、言えばいいの?」
いや、言われたって叶えられるモンじゃないだろうが。そりゃ俺だって望んでこうなったわけじゃねぇんだ。助かって、生きられるんならその方がいいに決まってる。……でも、もう無理だ。
やり残してきたことが、いろいろあったはずだ。なんせ明日も同じことを繰り返すんだと思ってたからな。しかし、いざ思い出そうとすると何も浮かばねぇ。どうせ何もできないしな。
「終わったら、の……、話だが」
「うっさいしゃべるな」
「……お前、食って……、くれないか」
辛うじて振り絞った言葉に、返事はなかった。リオの体に緊張が走ったのだけ感じて、次の瞬間、奴の気配が消える。どうしたと尋ねる余力もなかった。
プライドなんてもう無いようなものだ。だが最低限譲れない線はある。……同族には食われたくねぇ。海で負けるのだけは御免だ。どうせここまでが俺の限界だってんなら、他の奴の獲物になるよりいっそ、コイツに食われて分解されて海に還る方がいい。まだマシだ。
いい加減に体も動かなくなって頭がぼーっとしてきた時、いきなり呼吸が楽になった。
「……なん、だ?」
俺を取り巻いていた水が勝手に蠢いている。泳ぐ力がわいてこない代わりに、海の方がやたらと粘度を持って動き出した。水流が勢いよく渦巻いて俺を運び去ろうとしている。たぶん、陸の方へ。アイツいなくなったかと思ったら変身したのか? 意識統一して、海の一部になって、俺に息をさせてんのか。
「も……、いいっての……」
呼吸が戻ったからって済むような問題じゃねぇんだよ。既にどこにも動かせる箇所がない。感覚だけなら俺はもう“居ない”のと同じだ。なのにリオは止まらない。
全身プランクトンになっちまうと、人間の意識を保つのが大変らしい。思考まで呪いに侵食されて自分がバラバラになっていくんだそうだ。だが、ぱっと見て分からねぇぐらい小さくなった奴は、それでも一つの意志を持って陸へ向かっていた。
正直、行きたいって気持ちとこのままここに居てぇってのと半々だ。地上に舞い戻りたいとは思わないが、もしかしたら生き残る可能性もあるんじゃないかなんて期待もしてしまう。人間なんかに託してどうするよ。さっきから、俺らしくねぇな。
……ああ死にたくねぇ。もっと、もっと先まで生きてぇ――。そんな願いを実感させないでくれ。消えかけてたものを、他人のくせにお前が往生際悪く足掻くなよ。俺まで、諦めきれなくなるだろうが……、馬鹿。