03
帰宅したヨンに有無を言わせず封印球を手渡され、ヤトは困惑しているようだった。
「流水の紋章、前に便利そうって羨ましがってたよな。代金はクレイが出してくれるから紋章屋に行っておいで」
私の了承もヤトの返事も聞かないままにヨンはそそくさとエレノアの部屋へ入って行った。彼女にも土産があるのだろう。あるいは、今からすぐにでも紋章屋へ連れて行けという私へのメッセージかもしれなかった。
ヤトは受け取った封印球をじっと見つめている。あの青い光に何を想うのかは窺い知れない。彼は私の命を忠実に守っているらしく、この数年間一度も紋章を宿したことがなかった。
あれは確か、我がクレイ商会が皇国内部に影響力を持つようになってきた頃だ。総督に取り入ることに成功し、私は南進政策に僅かながらも口出しできるようになっていた。忌々しい海神の申し子の目を掻い潜って情報収集と人脈確保に駆けずり回り、まさしく休む間もない忙しさだった。数日眠らぬ日もあったほどだ。
私が部屋に帰るとそこで待っていたヤトの右手に青い紋章が刻まれていた。彼は私財を持たないが、苦心して町で封印球を手に入れ、宿してもらったという。水の紋章……癒しの魔法を持つ刻印。
ヤトはおそらく私の体調を気遣っていたのだろう。私の負担を和らげるためにそれを選んだのだ。しかし私には、まったくありがた迷惑でしかなかった。
年に似合わぬ汚れ仕事にも馴染んでしまった手の甲に、嘘くさいほど美しい紋様が刻まれている。無垢な存在を装うかのように。ヤトの行為によってもたらされたものは感謝や慈しみではなく怒りだった。私は義手で彼を殴り飛ばした。
『すぐに外せ』
『は……はいクレイ様。でも……』
『君が紋章を宿すことを、許した覚えはありませんよ』
罰の紋章の在処を掴みかけていたこともあって、当時の私は特に力を欲していたから、彼が余計な気をまわしたのも無理からぬことではあった。腫らした頬を押さえもせずヤトは呆然と私を見上げ、やがて腕を切り落とさんばかりの勢いでその紋章を捨てに行った。
ヤトに魔法の才能があったのかどうかは知らないが、私の目的を思えば使い手が多いに越したことはなかった。彼が水の魔法を使えるようになれば私や部下の休息の手間を省ける。そもそも他の小使いや密偵どもには無頓着に封印球を与えていたのだ。
しかし、ヤトはいけなかった。彼の手に力を持たせるのだけは許し難かった。それが例え世にありふれた害のない紋章であっても。この私が恐れ、求める罰の紋章とは似ても似つかぬ魔法であっても。あの子に紋章を与えてはならないのだ。そう信じていた。
ふと我に返ると私はいつの間にか義手でヤトの腕を掴んでいたらしい。封印球を持ったまま彼は困ったように私を見上げている。
手を伸ばした記憶もなかった。無意識に彼に触れたのは何のためだろうか。またあの時のように殴りつけて叱責するつもりだったのか。私は今でもやはり彼が紋章を宿すことを快く思わないだろうか。正直なところ、自分でもよく分からない。
「……クレイ様? 大丈夫です、私は紋章を使いませんから。これは道具屋に売りに行って、お金はヨンに返します」
――その紋章を使ってはいけないよ。
あの子は約束を守らなかった。私を想い、私の復讐のため、私を守るために呪われた力を解き放ち、そうして小さな命までも手放してしまった。遠いところへ……二度と届かぬ闇の底へ……。
私の身を案じて魔法を宿したヤトの姿は、焦燥と後悔を滾らせる。そして不安は怒りに変わるのだ。
ヤトは鏡だった。彼をそばに置けば冷静に己の進むべき道を考えることができた。私がかつて持っていたものを、私が今やなくしたものを思い出す。あの憤り、憎しみ、殺意、悔恨を、彼がいれば決して忘れずにいられた。己の内からは沸き上がることのない感情の奔流を、彼を通して感じられた。
感情の奔流に疲れ果て生きることに迷おうとも、ヤトがなぜそこにいるのかを思えば、生気のない彼の顔が、私の戦う理由を叫び続ける。嘘で塗り固めた仮面の裏に隠したものを、彼がすべて預かっていたのだ。
あなたの役に立ちたいと言った健気な姿にあの子の最期が重なった。ヤトの手に紋章を宿すのが許せなかった。それは私に還されるべきものだ。この冷たい左手に。かつての過ちを正すために。
彼の小さな手には不相応な力を宿すのを許せば、私は再び選択を誤ることになるだろう。そう、信じていた。あの頃は。ならば今は?
血の通わぬ手で誰かに触れることにはまだ慣れない。といって右手を伸ばす気にもまだなれない。
「紋章屋へ行こうか」
「……え? でもクレイ様は、」
目を丸くして硬直するヤトの腕からようやく手を離し、言った。
罰の紋章はヨンが持っている。あれはもう私のもとには戻ってこない。いつまでも拘っているのは馬鹿馬鹿しいと誰もが言うのだ。あれは……あれは、私が諦めることを望んでいるとヨンは言う。今この手にあるものを見ろと。
「もういい。紋章を宿しても構わないよ。それで無茶をしないのなら」
ヤトは約束を守るだろう。あの子よりもずっと強く、大きくなったのだから。あの子とは違うのだから。私はおそらく、それを許すべきなのだ。